コラム:週刊モンモントーク
[62] SNSという脱真実
1.「いいね!」
何なんだ!?、この、見られてるっていう感覚、その、モットって突き動かすような衝動、いいね!、っなんてされるとさらにドーパミンが分泌される。何なんだ!?、この感覚は?、認められ一目置かれてるような高揚感、意見表明や芸術表現、オリジナルのね、ならまだしも、お仕着せのタダの写真のアップでも...、何なんだ!?、これって...。
コミュニケーションは相互理解の、共生の始まり、互いの尊重が続くはず、目指すべきは自由な個人、が、そこにあるのは、群れを作るヒトの本能、低次元の承認欲求、群れることを求め、時にはスケープゴートを探し排除し、自分達の感情的な結束を確かめひと時の安心を得るだけ。理性にまで昇華されず、感情がクルクル回るだけ。
でも、「いいね!」ってなんかイイね!、終助詞と感嘆符のコンビ「ね!」が効いてる、ちなみに、英語版では、ただ「Like」、"!"も付いてないし、英語には感情の機微を表す助詞に当たるものはない。言葉に文化が具現化する。
2.「ほんと?」
そして、その群れは他へ広がることはなく、他を受け入れることもなく、仲間内で完結する。もちろん、それが大切なこともある、が、「いいね!」自体が目的になった時、現実の倒錯が始まる。それって「ほんと?」って思いながら「いいね!」する、自由な個人の集まりの自由な空間を目指したハズが、不自由な足枷となって個人を束縛する。
もともと具体的な経験を共有しようと投稿する、が、いつの間にか、経験が理想化され抽象化され、こんな経験できればいいな、から、そんな経験できるはず、に変わり、素敵な経験を作り出す。100%ウソではない創作された経験、渦巻く感情、経験は経験でしょって、いいでしょって、資本主義社会での、ワタシの経験の個性的な消費。
それは、帰納法から演繹法への世界の見方の大転換、経験的に把握していた世界を合理的に説明しようとする、人に備わった理性の働き、辻褄が合えば理性はOK、感情を理性が理論的に裏づける。
3.「すっごーい!」
でも、何でそうなっちゃうの?、それは、理性がすべてに意味を求めるから、というか、そんな精神の働きを理性って名づけた。理性は感情である、問題は、理性は他の感情に劣るのかってこと、 理屈では分かる、でも、感情が許さない、というその構造。世界に意味を求め希望を抱く理性と、意味を失い絶望する感情、その根っこは同じ。
生きる意味って文化の中にある、というか、理性が作り上げた社会や文化の中にしかない。周り次第、それぞれのコミュニティーの価値観に乗っかって意味を紡ぐ。それが、崩壊の危機にあるなら作るしかない、理性が理性である限り。が、ゼロから人工的に文化を作り上げられるほど人は、そんなに賢明ではない、とは、ハイエクの弁。
歴史上宗教上の様々な奇跡・伝説・言い伝え、これこそ、元祖「脱真実」、あり得ない現実、でも、あったはず、ありえるはずの真実。真理を求めて、意味を探し続ける、人だけが持つ人に備わったスゴい機能・形質...。
4.「ズルーい!」
人は誰でも自分は唯一の特別な存在、あるいは本当に、自分だけが唯一の存在かもって無意識してる。他者も自分と同じような存在なんだと、どこかで言い聞かせてるだけ、懐疑的な見方は理性が生み出した、人の仕様。それは、この絶対無二の存在、自分という先天的な確信と、他者も同様に存在するハズという後天的な確信。
それぞれの現実把握は、大きな意味での「脱真実」、だから、一部の者の幸福から、「ズルーい!」って感情を原動力に、少なくとも「最大多数の最大幸福」って理性による理論武装を施し、民主主義って「真実」を追求してきた、けど、もう、疲れちゃったんじゃない、みんな...。「真実」だとの確信が「脱真実」かもって、脳裏をかすめる時、人は...。
「ズルーい!」ってルサンチマンとも言われる感情が、ニーチェによると、キリスト教を生み出した。感情の見事な体系化、果敢な行動と深淵な思索の果ての、余りにも精密で緻密で大胆で魅力的な「真実」の見事な殿堂。
5.「へ〜っ!?」
「元気をもらいました」とか「元気をあげたい」とか、絆とか繋がりとか心の触れ合いとか、いいんだけど、わざわざ口に出すと胡散臭い。特に「絆」の原義は、家畜や人を繋いで動けなくするための綱、人はそれが嫌で、自由や解放を求めてきたんじゃないの?、本当は自由の行き過ぎに警鐘を鳴らしてるってんなら、覚悟を決めてしてよね。
でも、その気持ちよさの心地よさの正体は何?、無駄なコミュニケーションとも思える過剰なSNS、なぜ盛ん?。面白いじゃない、っていう脳への刺激の中毒症状、褻の日のない晴れの日の連続、結局は感情の赴くまま。それに理性がキャップを嵌めてきたのに、近代的自我が、リミッターを取り払った。行き着く先は誰も知らない。
SNSといふ広大な時空が、「脱真実」を超へて「真実」を生み出す時そこには、一種の神が降臨しているであらう、蒼ざめた
-われ見しに、視よ、青ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府これに隨ふ。-
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