コラム:週刊モンモントーク
[6] 近代からポストモダンへ
1.「近代」が終わろうとしている−理性の限界−
理性により普遍的価値観を求めた時代−近代が、いよいよ終わろうとしている。理性の限界−皆がうすうす感じていたこと、潜在意識では誰もが分かっていること。前世紀の人類理性の壮大な実験「共産主義」が、一瞬足りとも現実的に輝いたことがあったか。最後まで「空想的社会主義」ではなかったか。
革命は、仕掛けた集団だけが、成し遂げられたその瞬間のみ、カタストロフィーを味わった。「感情」に支配された古い偏狭な価値観を根こそぎぶっ壊せばぶっ壊すほど、「理性」は、新しい偏狭な価値観を緻密に作り上げた。「理性」を至高とする社会を作り上げようとするときに現れるおぞましさを、我々は嫌と垣間見た。「近代」への不信。
資本主義の共産主義に対する勝利とはそういうことだ。保守は革新に勝るのか。理性は感情に劣るのか。すべての個人が、よりよい生を全うする社会という理想に、今、黄信号、赤信号が激しく点滅している。
2. 運命の17世紀−近代的理性の誕生−
それは、「あんたたちだけズルいじゃないか。もう、許せん!」という感情を、理性で“理論武装”した時に始まった。神話や宗教に始まる社会安定のための壮大な物語を否定し、「近代」という新しい「真」の物語を理性によって紡ぎ始めた。そして、その先に完璧な普遍性を感じた時、人は感情的に熱狂し、理性を讃えた。何という矛盾。
理性は無敵と思われた。当然だ、英雄物語の主人公は、常に無敵で万能。物語の中では、すべては、主人公を中心に完結する。科学―理性によって神の領域を覗く―の知見がそれを補強した。「近代」という価値観を受け入れない人は、集団は、野蛮で劣っているとみなされ、迫害の、征服の対象とされた。だって、それは「究極の真理」なのだから。
ただ、皮肉にも、古い伝統をコアに残しつつ近代化を進めた集団が、結局は繁栄した。理性が過激に革新を求めるたびに、揺り戻しが来た。その時、気づくべきだった、いや、気づいてはいたのか、「理性」の限界に。
3.「近代的自我」という物語−壮大な、あまりにも壮大な”虚構”?−
それは、物語に過ぎない。たとえば、なぜ、理性は人種的偏見を肯定したか。「自由、平等、博愛」とヒューマニズムの美しすぎる美しさを謳ったはずなのに、言ってることとやってることが違う。価値観を同じくする身内だけでの相互扶助。それは、自分の属するコミュニティー「の、による、のための」物語に過ぎない。
自立する個人が、個性的に能力を発揮し、理想的に社会を発展させるという理想社会。だが、-べきだ、-はずだ、と他を排除し攻撃する自己中心性。これこそ普遍だ、と主張する特殊性。漱石も鴎外も、求めて結局わからない「近代的自我」。晩年、日本的伝統の中に安らぎを見出す。当然だ、人は自分達の物語=文化の中で生きているのだから。
社会変革に行き詰まり、「普遍的」な大きな物語を失おうとしているかに見える今、「近代的自我」だけが肥大化し、かつてあると信じたユートピアを求めて、亡霊のようにさまよっている。近代的自我「という名の亡霊が」。
4. 20世紀とは何だったのか−「理性の祭典」の最悪の結果!?−
理性の勝利、フランス革命は、なぜ皇帝ナポレオンを生んだのか。理性的な近代的自我を持つ個人の集まり、「国民国家」は、なぜ“残虐非道”な「帝国主義」へと突き進んだのか。理性が生み出した理想の政治体制、「共産主義」は、なぜ最悪の国家体制となったのか。理性に伴う欠陥は何なのか。
第一次世界大戦−「戦争を終わらせるための戦争」−は必然だったが、第二次世界大戦は避けられたのか、やはり、必然だったのか。理性は働いたのか、働いた結果、そうなったのか。「冷戦」が冷戦で終わったのは、理性の勝利なのか。戦争はいつから、善vs悪の戦いになったのか。普遍性を、真理を巡る理性の戦いなのか。
20世紀にクライマックスを迎えた?「理性の祭典」、今も続いているのか。何が成し遂げられ、何が変わろうとしているのか。壮大な、あまりにも壮大な理性の実践。「理性」への不信。
5. そして、再び、運命の21世紀−近代の後の黄昏!?新生!?−17世紀2.0!?−
そして、400年が過ぎ去った。一つの時代が終わるには十分な時が過ぎた。一つの物語の魔法が解けようとしている。かつて輝いていた物語の圧倒的魅力の喪失、17世紀2.0!?。何が正しいのか、正しかったのか。価値あることとは何なのか。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」−天才による問題提起が一般化する。
ただ、科学技術の発達は理性の賜!?。豊かで便利、合理的で効率的=近代的という「近代」の価値観。神の意図を理性によって探ろうと始まった科学は、その過程で、理性による神の否定に進んだ。しかし今、人体を含み、自然が解明されればされるほど、背後に、何らかの大いなるもの?の存在を、人は感じ始めている!?。
モダン(近代)からポストモダン(現代?)への流れは確実に起こっている。人が生きていくためには、物語=文化が必要だ。今度こそ真の本当が、普遍的価値観が、「技術的特異点(Singularity)」を越えて、AIによってもたらされる!?。
(番外). 結局、独創的な「作文・小論文」とは(その2)→(その1)→(その3)
「近代」とは何なのか、何だったのかを抑えずに、現代社会の諸問題を論じることは、本来、不可能。また、その背景を知らずに、体験を、意味あるものとして位置づけることもできない。「一般論」に対して問題提示をし、新しい視点を付け加え、議論を展開する、とはそういうこと。
もちろん、人の感じ方や考え方、行動は、その人の価値観に左右され、結局は無意識に、その時代その集団の文化を背景に論じることになる。しかし、自分を縛っている価値観を、客観的に意識し理解しているといないでは、考察に雲泥の差がでる。時代に流されていくのか、時代を読めるのかの違いは大きい。
時代を見つめ、現実に根ざした想像力による創造。「ブルーオーシャン」に乗り出す知見と自信に裏打ちされた勇気。時代をリードできるリーダーの資質。小論文でそれを感じさせるんだ。
−再掲−
『「主張」に向かって、考え悩んだその過程を、若者特有の情熱感を伴って書く。考察するその過程にこそ意味があり、創造力の源泉となる。様々な問題が、感じ方や考え方の違いから起こるのならば、価値観の違いとして、意味づけ体系づけた自分の経験は、読むものの心に必ず響くはず。』
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