コラム:週刊モンモントーク
[74] 「自然主義的誤謬」という誤謬
1.「自然主義的誤謬」 -ムーアの場合-
モンモン: せんせー、「自然主義的ゴビュー」って何?、何か...それって自然だよねー、イイよねーって言っちゃいけないみたいで...何か...結局...。
先生: うん?、何があったのかな?。
モンモン: うん、「遺伝子組み換え食品」ってあるよね、で、何か自然じゃないからイヤだなーって言ったら、それ、「自然主義的ゴビュー」だって言われて、で、農作物の品種改良を人ってずっとやってきてるでしょって言われて、それは自然に合わせてやってきたんだらかイイと思うって言ったら、それも「自然主義的ゴビュー」だなって言われたんだけど、ゴビューって、私が間違ってるってこと?、何だかなあって言うかァ...結局...。
先生: う〜ん、「遺伝子組み換え」の是非は置いておいて、それ、「自然主義的誤謬」の本来の使い方とは違うな、まあ、一般にそんな意味で流布しているんだが、分かりやすいからな。例えば典型的な例として挙げられるものにこういうのがある、自然界では雌雄の役割分担が明確なのが自然だ、だから、昨今の、アメリカでも大きく取り上げられてきたLGBTQ関連の議論は、自然に反するからナンセンスだ、と...。
モンモン: え〜っ?、そんなの「自然主義的ゴビュー」なんて難しいこと言わなくても、前提条件が間違ってるよって言ってあげれば済むことじゃない、何だかねー。
先生: そうだ、「大前提」に誤謬があるだけだ、三段論法の。まあ、意識的にやっているのなら詭弁だけどな。本来の「自然主義的誤謬」の例にはならないんだ。
モンモン: 三段論法?...。
先生: ああ、「自然界で行われていることは正しい」が大前提、「LGBTQは自然界で見られない」が小前提、次に結論が来るのだが、その大前提に疑問符がつくわけだ。
モンモン: へ〜、なるほどね...、自然だからイイ、不自然だからダメって議論は、大前提を省略してるからおかしくなるんだ。でも、三段論法の本とか見るとなんであんなにつまんない例なの?、人は死ぬ、だからソクラテスも死ぬとか、魚は泳ぐ、マグロも泳ぐとか...?、何あれ?、アタマ、悪いの...?。
先生: まあ、それはさておいて、「自然がそうだから〜すべき(すべきではない)」を「自然主義的誤謬」って呼ぶのは三重の意味での誤謬だな、大前提を明示しない誤り、大前提そのものの誤り、そして、それをそう呼ぶ誤りだ。
モンモン: で、まず自然界の生物は、個よりも種が続くことを第一にしてるよね。もうそれで、個人主義とか民主主義とか個人の権利とか、論じるのムリでしょ?、普通...。
先生: ...なるほど...、
モンモン: なにその全方位攻撃、何がそこまでさせたの?、ミルの功利主義って「快楽主義」ってマイナスのレッテルを張られることもあるやつでしょ、そういうのが個人的に嫌いで許せなかったんじゃないの?、結局。
先生: 「事実」から「価値」を導くことは出来ないってことだってムーアを擁護する人もいるけど、ムーア自身は「事実判断」とか「価値命題」って術語は一度も使っていない。ただ、例えば
モンモン: それってあれじゃない?、クオリアの問題、黄色の電磁波としての特徴をいくら言っても「黄色」という色は浮かび上がってこない、黄色の感じはわからないでしょ?、意識が直観的に感じてるだけ。それと、黄色は他の色、赤や青や緑なんかがあって初めて黄色になれる、「善」も同じだって言いたいんだよ。差異の体系?、だったっけ、構造主義だよね、構造の問題、だから価値の問題は構造の問題だって意味なんじゃないの?。
先生: ...なるほど...、ムーアは、「黄色い」や「善い」は単純概念で他の概念でさらに概念化できないからとし、そこまでは言っていない、というか、学問の水準がそこまで到達していなかった。ソシュールより16歳年上だが、「一般言語学講義」が英訳される1年前に亡くなっているし、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」も読んでいないかも知れん。
モンモン: でもその、「善い」は直観的に分かるだけで、定義しようとするのがゴビューだとして、なぜ「自然主義的〜」なの?、それだからさっきの誤解が起こるんだよね、結局...。
先生: 実はムーアは、自分の指摘したかった誤謬を何と呼ぼうがどうでもよいと言っとる。
モンモン: 何それ?。
先生: 最初は、
モンモン: え〜、分けわかんない〜...、自分でも分けわかんなくなっちゃったんだね、きっと。じゃあもう、そのムーアの言うゴビューを「自然主義的〜」って呼ぶ理由はないんじゃない?。
先生: ああ、まあそうだな。
モンモン: まあ、って...、でも何かカッコいい呼び方だから残っちゃったんだろうね、意味を変えても。でも、「それは自然だ」とか「自然ではない」が議論のカギになることあるから、その意味で注意を促すのもイイかな。でも、その間違って皆が使ってる「自然主義的ゴビュー」自体が自然主義的ゴビューを犯してたんだ、結局は!。
ムーアの倫理学は「善い」は定義できず直観するのみとの直観主義であり、「幸福は善」であり人生の目的であるとする、功利主義のミルを「素朴かつ無邪気なしかたで自然主義的誤謬を犯してしまった」とムーアは酷評した。 |
2.「Is–Ought Problem」 -ヒュームの場合-
モンモン: でも、ムーアが「自然主義的」って言葉を否定的に使ったのは時代への反発もあるんじゃないかな、自然科学の方法への?、実験や観察で分かることだけから学問を組み立てようっていうの、それって正しい姿勢なんだろうけど、人間の精神や心ってそうじゃないって...、何でもかんでも部分的に分析すればイイんじゃないってね。
先生: う〜ん、ミルの言う「幸福」は、心理的に観察できる「快」という経験に還元されるってことだから典型的な自然主義だな。「自然は理にかなっており合理的だ」という考えが西洋には息づいている、自然は秩序正しく正確に動き、時を進めていくと。自然は創造主の全能性の具現化でもあるんだ。
モンモン: また、神様!?...、あれでしょ、ニュートン力学のヤツ、物理学って19世紀には完成したって考えたんでしょ?。Oh! My God!、すっばらしーって感じで!?。
先生: ああ、いわゆる古典力学と電磁気学を基に後は周辺事項の整備、微調整をするだけだと多くの物理学者は考えていた...、パリ万博の高揚感なんかもその現れだな。
モンモン: それじゃ無理ないよね、物理学に続けーってなるのが、真理を目指せーって。でもその裏で、人文科学はそれじゃダメだって、カントの系譜?って言っていいの、それが息づいてたんだね。
先生: まあ、その物理学自体が微調整では済まなかったんだがな、ニュートン力学と電磁気学の矛盾から特殊相対性理論が量子論が生まれるわけだ、実験と観察によってな。もちろん科学はその方法を捨ててはいない。そう言えば、ムーアの「倫理学原理」は1903年出版で、アインシュタインの相対性理論の2年前だ。
モンモン: 皆、悩んで苦しんで大きくなるんだね。でも、ムーアの直観のがイイかな...、まあ、快楽の追求とか自分の幸福とかって功利主義がちょっとヤなだけかも知れないけど、結局...。でも、自然が、人も含めてね、こうなってるっていう観察や実験から、だからこうするとイイよって何か道徳的な何かが、さっき言ってた「善い」が分かるのかな?。
先生: ああそれが、「ヒュームの法則(Is–Ought Problem)」と呼ばれるもので、「事実(〜である)」から「価値(〜すべき)」は推論によっては導けないと、既に1739年にヒュームが指摘しているとされている。実はムーアはそれも自然主義的誤謬だって批判しておるんだが...。
モンモン: えーつ、ムーアさん、本当に無差別全方位攻撃だね、そうなるともう、完璧な直観主義で...。
先生: ただヒュームは、そんなに大上段に主張してはおらず、理由や根拠を並べてきちんと推論を試みろ、そうすれば、理性に道徳的判断は出来ないことが分かる、とさらっと指摘しているだけとも読めるのだけどな。
モンモン: でも、科学の進歩がいつも幸福につながるわけじゃないって皆、何となく分かってるよね、結局。
先生: ...なるほど...、物理学の成果が、事実の解明(〜である)をいくら積み重ねても、立派な価値の体系(〜すべし)は出来なかったということか、それどころか、悲惨な現実を多くもたらしてきた...。
モンモン: あ〜分かった!、写実主義文学が「〜である」で、自然主義文学が「〜すべき」ってことなんだ、結局!。
先生: うん?、どういうこと?。
モンモン: だから、文学に限らないのかな?、写実主義から自然主義へって、「〜である」から「〜すべき」への流れってこと、人ってそんなふうに出来てるんだね、結局。
先生: うん?、どういうことだ?。
モンモン:だから...、写実主義はロマン主義への反発から生まれたんでしょ?、んな夢みたいなこと言ってないでもっと現実を見てってところから...。
先生: ああ、ただ、ロマン主義は個人の感情や感受性に目を向けたということは強調しておきたいな、今では当たり前だけど、個人主義の芸術として熱狂的に受け入れられたんだ。
モンモン: うん、それはイイんだけど、写実主義は Realism ってくらいだから、もっとリアルにってことでしょ?、現実はこうだ、「〜である」ってね。実際にあるものを、見えるものを書く、結局やっぱりィ、自然科学の発展に影響されたってことでしょ、ありのままに見ろってね。
先生: ...なるほど...。
モンモン: でね、リアルに書くってことだけに飽きたらなくなって、というか、現実に疑問を感じて、「〜すべき」って書きたくなるの、それが自然主義ってことなんだ、人ってそんなふうにできてるのかな、結局?。
先生: ...なるほど...、写実主義は観察の描写で自然主義は価値の追求ってことか、自然科学の方法をまねて真理に迫ろうとしたんだな、一見、無秩序な自然は実は完璧な秩序を維持していると自然科学は解き明かしつつあった、それを見て、人の感情や経験という事実から、自然と同じように、人間社会の秩序を解き明かそうとしたんだな。
モンモン: うん、だから Naturalism、自然主義って名づけたんだね、で、それ変だって直観的に直観したムーアは、その間違いを自然主義的ゴビューって言って非難したんだ。
先生: ...なるほど...、だから「ヒュームの法則(Is–Ought Problem)」とムーアの言う自然主義的誤謬とは大きく重なってくるわけだな、「事実(〜である)」から「価値(〜べき)」は推論によっては導けないと...。
モンモン: うん、二人とも、理性の欠陥に気づいてたんだよ。
先生: 理性至上主義への警鐘だったわけだな。ヒュームは「理性は情念の奴隷である」とも言っておるが...。
モンモン: うん、でもね、古典主義からロマン主義、そして、写実主義から自然主義への流れは必然だったんだ、人はそんなふうに出来てるんだね、結局。
先生: ああ、17世紀、すべてが疑わしくなり、古代ギリシャ・ローマに調和と均衡という理想を見た時、そこにキリスト教的神はいなかった。それが個性尊重のロマン主義を生み、写実主義から自然主義へとつながっていった、つまりそれは、神の死にゆく過程だったと言える。
モンモン:えっ!?。
先生: 写実主義が描いた事実(〜である)を自然主義が掘り下げ、人の社会の真実に迫ろうとした時、そこに見たのは、自然界で見た美しい秩序ではなく、人の欲望の渦巻く無秩序な混沌だった。そして、神の不条理を嘆き、神不在の理想(〜べき)論に真理を見出した時、神は死んだ。
モンモン: だから、共産主義に神様はいないんだね。で、神様の不条理よりももっとひどい、人の理性の不条理を100年かけて実験し経験した、20世紀って本当に何だったの?。だからムーアに言わせれば、その共産主義って考え方もほら、自然主義的ゴビューで一杯だったろってことになるんだね、結局は!。
「事実判断」から「価値判断」は推論できないと主張したと喧伝される「ヒュームの法則」だが、彼の議論の肝は「道徳的区別は理性に由来(しない)」せず、「道徳的区別は道徳感覚に由来する」ということ...だ!!??。 |
3.「選好功利主義」 -ヘアの場合-
モンモン: でも日本人には、日本文化ではこの流れが分からなかったんだね、明治時代に西洋文学が一気に入ってきた時、まず飛びついたのが写実主義でしょ、次がロマン主義で、で、分けわかんなくなっちゃった自然主義、メチャクチャだね、順番が...。
先生: ああ、まず、江戸時代の勧善懲悪ものを扱った戯作文学への反省から、客観的にあるがままにと写実主義を信奉してはみたが、古典主義をすっ飛ばしたところで勝負ありだな、その背景にあった、理性に信頼を置く啓蒙思想を軽視することになったのだから。結果的に、人間存在や社会への思考の深まりが不十分で消化不良になり、遂には、日本人には西洋的な近代文学は書けないと自嘲するまでになった。
モンモン: 写実主義と自然主義の違いも分かんなかったんじゃないの?。
先生:ああ、自然主義とは現実を赤裸々に描くことだって、その方法論だけ取り入れて、一番、赤裸々に描ける自分の私生活を暴露して作品にし、西洋近代文学が持っていた社会の普遍的問題を追求する客観性は失われるんだ。
モンモン: 私小説だね、で、日本人には長編小説は向かないが短編小説は世界的な水準だって言ってたんだよね。でも私小説って、個人主義にはつながってるの?。
先生: いやまったく別だ、夏目漱石でさえ「自分本位」という言葉で近代的自我を何とか捉えようとしたのだから、他は推して知るべし、「自分勝手」的な解釈から発展性はなく袋小路に迷い込み、私小説自体も廃れていった。
モンモン: 文化の違い、価値観の違い、パラダイムの違いだね。でもそれを責められないよね。日本ではムリだったんだ、自然の捉え方からして違ってるんだから。漱石も結局、「則天去私」って東洋的境地に入ってくんだよね。
先生: そうだ、そして今度はそこから「自己」を捉えようとした。「私」を離れることで「私」とは何なのかを直観しようとしたのだろうな。東洋的といえば東洋的だな。
モンモン: う〜ん、苦しみ悩んだんだね。でもそれって、ヒュームやムーアと似てない?、ゴチャゴチャ言っても「〜あるべし」とか「〜すべし」には到着できない、直観あるのみって...。
先生: ...なるほど...、漱石はそのような視点は持っていなかったようだがな...。
モンモン:でも、人ってそんなふうに出来てるんだ。事実(〜である)から価値(〜べき)を、もっと言えば、意味を引き出すのが人、それが生きるってことだから。人って、自然主義的ゴビューを自然に犯すように出来てるんだよ、結局。
先生: ...なるほど...。
モンモン:でもって、その価値や意味の塊が価値観、つまり、文化ってことだから、そうすると今度は、価値が事実を決めるようになるんだ、でしょ?、「〜ベキだから〜」「〜ハズだから〜」ってね...。
先生: ...なるほど...、帰納から演繹へだな、そしてそれは、人の認識の構造そのものだな。現実は確信の連続が構造をなしているのだから。それが極端に振れ精緻に構造化されたのが宗教だ。
モンモン: だから何かを、「それは自然主義的ゴビューだ」って批難するのは人間の本性を分かっていない人のゴビューなんだよ、そう非難したって何も始まらないしね。
先生: 「それは間違っていると思う」と言っているだけで、反証や論駁にはなっていないということだな。
モンモン: うん、でね、人が「フツウー、せんやろ〜」って言う時、それが分かって言ってるんだ、意識的、無意識的にね。注意しなきゃいけないのは「フツー」の中身が人によって文化によって違うってこと...。
先生: ...アリストテレスは、蓋然的な通念(エンドクサ)が倫理や道徳を規定すると言っとるが、その社会通念が日常的な普通ということだな。ムーアはそれも自然主義的誤謬だと批判したのだが...。
モンモン: ガイゼン的?、何言ってんの?...、でも結局、価値観の問題、文化論に行き着くんだね、当たり前かな、人が引き起こす問題は価値観の相違が原因なんだから、結局...。で、今、その価値観が大きく変わってってるんだよね、「~である」から「~ほしい・したい」は導けるのかってね、ヒュームふうに言えば、「Is-Want Problem」かな?。
先生: ...うん?、どういうことだ...。
モンモン: 「事実」から「道徳的価値」、じゃなくて「欲求的価値」は出てくるのかって...。「負けたって〜やァ」って他人事のように言う時、自分の欲求をね、ふわっとした人間関係で包んで出来るだけトクしようって、お互いにね、色んな可能性の中で駆け引きして、意識的、無意識的にね。
先生: ほ〜、可能性の中での駆け引きを「選好の充足」と言い換えればヘアだな...、しかし、近江商人の心得に「三方よし」がある、「売り手よし・買い手よし・世間よし」というものだが、それはお互いの「ほしい・したい」を、「良い」から「善い」に、社会倫理にまで高めようとしていたということか。
モンモン: やっぱり日本人ってスゴいね、っていうか、お金儲けってことになると、商業が盛んになると?、そういう文化が出来るのかな?、その「ほしい」って露骨な感情を隠そうってね。
先生: ああ、...なるほど...、「ほしい・したい」は近代的自我が解き放った新しい価値観で、社会の維持に必要な伝統的道徳の価値観(べき)に挑戦している、だから、無意識に感情が、"保守的"理性が反発する、が、欲しい物は欲しい、したい事はしたいって感情を、"革新的"理性が擁護する、現代社会に吹き出ている矛盾の多くはそれか?。
モンモン: そう、功利主義って利己主義みたくてヤだなって思うけど、やっぱり、あれもしたいし、これも欲しいって...。それが、新しい功利主義の時代って意味なんだよね、結局...。
先生: 価値はどこから生まれるのか、価値ある人生とはどんな生き方なのか、「善い」とは何なのか、っていう最初の問いに戻っていくわけだな...。効率的な利他主義が最高の価値、つまり、「最高善」だという主張もあるな。
モンモン: えーっ、分かんないこともないけど、そう言う人達が一番、あれもこれもって自己実現してきた人達じゃないの?、本当に人って、人の脳って、観念から現実をつくりあげようってするんだね...結局は!。
「選好功利主義」と呼ばるれヘアの道徳哲学は、くだされる道徳判断の「指令性」「普遍化可能性」「優越性」をキーワードにその妥当性を問おうとするもの、「善い」とは何か、には踏み込まない...、ヘアの言う「普遍」とは...。 |
4.「普通であること」と「自然であること」、そして、「素直であること」 -ケン・ソゴルの場合-
「普通せんやろ、そんなこと〜」って言われても、しちゃうんだよなー、これが...。何なんだろう、これ?。ヘアに言わせれば、選好充足のための指令が優越性を伴って発せられたってこと?、ただしたいからしただけなんだけどね。で、ヘアはそこに普遍化可能性があるかどうか吟味しろって言うんだ、おまえの「〜したい」は普遍性を持つかって。
で、ヘアは、理想的な功利主義はカント的な道徳へ、普遍的な「定言命法」に従う方向へ進むはずって...、「〜はず」ってのがもう道徳なんだけど...、んなこと言われても...、聖人君主じゃないし...ね。
自然界では種の存続に最大の優越性を見る、だから、個の存続に価値を置いた時、問題が噴出する、生物は「基本的 "生物" 権」を尊重すようにには出来ていないから。それは一つのイデオロギーで、さあどうするをめぐって答えのない議論が絶え間なく続く、それが理性の苦悩、近代的自我が普遍的な苦悩としてそれを解き放った。
それって面白い?、かっこいい?、役立つ?、売れる?、スゴい?、と問う、自らの価値を、選好の充足を最大限に求める生き方、正義って何?、あるの?、それが新しい「功利主義」の時代って意味。
モンモン: せんせーっ、結局ヘアって、何が道徳的かは定義してないんだね。
先生: ああ、「何がなぜ」ではなく、「それがどのように」道徳的に「善い」と見なされるかを記述していく姿勢だな。
モンモン: てことは、ヘアも自然科学の方法で倫理や道徳を考えてるんだ、...それってヘアも、自然主義的ゴビューを犯してるってこと?、結局は!。
5.エピローグとしてのサイテーションⅠ
6.エピローグとしてのサイテーションⅡ
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