コラム:週刊モンモントーク
[42] 「浪漫主義」というロマン主義
嘆くなかれ その奥に秘められたる力を 見出すべし
1.「大正浪漫」
夏目漱石が、「roman(ローマン)」に「浪漫」という漢字を当てた時、まさしく彼は、ロマン主義、いや、浪漫主義していた。それは、時代の雰囲気を見事に感じ取り、来たるべく「大正ロマン」を予期し、「昭和モダン」へと続く大きな一時代のうねりを敏感に活写した当て字だった。何か面白い、何かクールなことが起こりそうな予感、それが...。
近代的自我を知らず、信仰や神との葛藤もなく、大正デモクラシーの風潮とともに、その本来の意味を気にも掛けず、自由を無邪気に満喫する空気に満ちた時代、ロイド眼鏡を掛けたモボが、アッパッパを着たモガが、東京のバスガールが、銀座の柳の下を闊歩する、自由恋愛の萌芽、100年後の今に直接繋がる精神性、開放感、それが...。
関東大震災後の帝都復興計画でさえ浪漫主義していた、大正から昭和ゼロ年代にかけての、モダニズムの流れとともに忽然と現れて忽然と消えた、ロマン主義というよりやはり、浪漫主義の時代、それが...大正浪漫...。
2.「ロマン主義時代」
18世紀、キャプテン・クックが未知の南方大陸、テラ・アウストラリスを求め、南南東へ進路を取った時に産声を上げたロマン主義は、フランス革命後の社会不安による理性への不信と、ワーズワースの「草原の輝き」の調べとともに、時代の精神性へと躍り出る。理想を求め想像力を大きく刺激し、産業革命をも推進する。
理性的で様式美に価値を置く啓蒙的な古典主義への反動から、高揚した自我の解放をめざし、想像し創造するロマン主義が生まれたその西洋とは違い、写実主義に遅れた日本のロマン主義には、西洋のような精神の運動は希薄だった。漱石自身、両者とも距離を置き、森鴎外と二人、余裕派・高踏派と呼ばれたことがそれを物語っている。
その非現実的な理想への批判から写実主義が生まれ、西洋の「ロマン主義時代」は、19世紀半ばには早々と幕を閉じる、が、その残滓は、世紀後半の奇妙な明るさになり、時代は世紀末、華やかなベル・エポックへと雪崩れ込む...。
3.
どこかにある何かを求めて、何かがどこかにあると信じて、自我の求めるままに、想像力を駆使しての創造、のはず、でも、その近代的自我がわからない、それが何なのかわからない...。古典主義をすっ飛ばしての日本のロマン主義は、ちょっと違った浪漫主義、個人の確立が文化の中心でない社会での、個人的理想の追求って...何?。
でも、「真の幸福に至れるのであれば、それまでの悲しみはエピソードに過ぎない」と宮沢賢治が、天の川が煌めく「銀河鉄道の夜」で仄めかしたのならやはり、浪漫主義もロマン主義...?、「...デハマタ、明日の午前零時に...」
4.「ロマン主義の時代」
ロマン主義時代は終わったが、「ロマン主義の時代」はずっと続いてる、というか、ロマンス語が生まれるずっと前から、人が人としての歩みを初めて以来、未来を意識して以来、人はロマンを求め続けてきた、それが生きるってことだから。だから、人はロマンに惹かれ感動し落胆し、時には、切なさ・やるせなさに夜空を見上げ、風の詩を聴く。
人は、明日を未来を想像する時、同時に過去をも概念化し、時間の観念を持つ。未来へのベクトルと過去へのベクトルは、方向は違うがその性質は同じ、西洋のロマン主義に中世騎士道物語への憧れがあり、ハイネが13世紀の伝説の美少女ローレライを歌ったのもそれ。ロマン主義は過去を懐かしみ、現在の理想を、未来へ投射する。
そうだとすれば日本は、いつだって「浪漫主義」というロマン主義してた。そして21世紀は、堂々と浪漫主義できる時代、夏祭りに涼を求めて、花火の大輪の下で、未来への実存的不安を、過去のセピア色の想い出で暖めて...。
5.エピローグとしての浪漫主義的モノローグつくづく思う、ほぼ単一民族の国、東の果てに浮かぶ島国、少なくとも4世紀から連綿と歴史を紡ぐ多神教の国、日本は、たまたま偶然に相成った実験国家なのではないかと、何かを立証するために創造されたのではないか、と。
つくづく思う、1929年に端を発する世界恐慌がなければ、大正浪漫から昭和モダンへ、そしてそれが、そのまま断絶なく現代へと続いていたなら、最も成功した、社会主義国、でなく、自由主義国、と呼ばれたのではないか、と。
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