コラム:週刊モンモントーク
[38] いかなる考察も概念が可能にする
1.ガチョウがガアガア
「あいつら、何も考えてないんだよね」って、一群のガチョウを見て言ったら、「ううん、いっぱい考えてると思うよ」って、その人は言って、一瞬、「んっ?」ってなった。仏教的な、って言うか、スピリチュアル的なって言ったほうがいいのかな、瞑想的な意味で、その自然と一体化してる精神の様子を褒めたつもりだったのに、通じなかったみたい。
「色んなこと、考えてるよ」って、ガチョウをバカにしちゃいけないよって、君、知らないのって、そんな得意顔で、ウインクをするように畳みかけるので、「いや、そんな意味じゃないんだ」って言えなくて、まあいいか、ここは一本取られたことにしておこうと、誤解は誤解のままで、今でも宙にポッカリ浮いたまま...。
でもやっぱり、ガチョウに思考はムリ、いや、ガチョウだけじゃない、言語、それも、分節された言語がないと思考はムリ、だから人は、わざわざ瞑想をし、思考を追い出し、概念化を回避し、ガチョウの高み?に登ろうとする...。
2.リンゴは赤い
どう?、微妙に違う赤のリンゴが、それぞれの脳裏に浮かんでるはず、これが概念の伝達、実物がなくとも情報が伝わる、微妙にズレるけど。これが理性、地上最強の形質の獲得。でも、英語では、"Apples are red."、つまり、あの果物は「ri・n・go」である必要はなく、あの燃えるような色は「a・ka」である必要もない。
青リンゴはgreen appleで、riceとlice(シラミ)は、日本語発音は"ライス"で、riceは「稲、米、ご飯、ライス」などすべてを意味し、カップヌードルに注ぐのは、"湯"か"water"で、まあ、それぞれ、"熱いお湯"とか"hot water"だけど...、日本語に"熱い水"って言い方はないし、英語には、"湯"そのものを表す単語が...ない!。
これがソシュールの言う、言語の恣意性、実物(と思われるもの)との対応で、それでなきゃダメっていう理由はない、各言語で自由(なのかあ?)に決められる、ってことは、その組み合わせで表す概念も、恣意的ってこと...!?。
3.言語は恣意的
本来何の関連性もないものに意味をもたせる、これが「記号」の破壊力、人が人になれた理由。言語を獲得しなければ人は、火を操る類人猿に留まっていただろう。人が、音声を発する声帯ではなく、光の三原色を発する瞳を持っていたなら、光が、虹色の様々な模様が、煌めきが言語になっていただろう。なんかスゴい...!?。
実際、今、日本語で纏まった概念を伝えようとしてる、が、伝えたい内容をうまく言葉にでき、うまく伝わってる?。つまり、Aが思考し想念を概念化し言葉にし、それをBが読み、概念を汲み取り想念を組み立て思考する。誤解の入る余地はすべての段階にある、内容が複雑になればなるほど、避けがたい。だから人は、分厚い本を書く。
概念化の能力は地上に現れた究極の奇跡。しかし、ウィトゲンシュタインはその不完全さに耐えられず、完全言語を求めた、が、言語とは不完全さがその力の源、恣意的な分節である以上、完全になりようがない。
4.愛は勝つ
どう?、「リンゴは赤い」よりかなり高度な概念化、そして、受け取る意味も各人それぞれ、様々に変わってくるのでは?。「愛」?、うん、愛ね、「勝つ」?、勝つんでしょ...、だから、それで?、とか、いつもとは限んないね、とか、よくそんなこと言えるよね、とか、でも、「見えますか愛」っていきなり言われるよりマシかな。言語明瞭、意味不明ってね。
そう、「愛」って概念は特に、人によって、価値観によって文化によってかなりズレるかな。キリスト教的西洋的概念では、「愛」は4つ。神の愛(真の愛)・隣人愛(友愛)・家族愛(家族の絆)・性愛(男女?)、日本人にはって言うか、異文化の人にはピンと来づらい概念かな、「神の恩寵と愛がっっ!」って言われても...、でも、こんなふうに考察はできる。
言語は不完全だからこそ、様々な概念を生み出せる、そして、概念化出来ないことは思考できない、考えられない、考えるってそうゆうこと、そして、概念が概念を呼び、新しい概念をさらに生み出す、それが、思考による創造。
5.
こうなると、受け止め方も千差万別、分かったような分かんないような、へーっ、そうなんですか、って妙に感心してみせたりして、そうしないと教養を疑われそうで。でも、「真理」って何?、「自由」ってホントは何?、「あなた方」って「私達」?、でも、「私達」って誰?、どこまでの集団が「私達」?、ところでその前に、「僕って何?」...と考える。
だから、見つけたって確信した「真理」を伝えるために、言葉を駆使して概念を組み立てる。人が、理性を獲得して以来、延々とその繰り返し、それが歴史を作ってきた。脳の、中枢神経の本来の機能は、外界の刺激を情報として処理し、危険を回避し糧を獲得、生を繋ぐこと。今でもスペックは同じ、脳への刺激は、外に対象物を求め、概念化する。
だから結局、言葉にする前の、概念化する前の、考察する前の、そのありのままの知覚によるナマの認識が結局は、それのみが「真実」と言える、そう、それはガチョウの認識、ただそれも、五感の能力に結局は制限されるのだが...。
貴重な体験を生かすも殺すも、自分の中で体系化され意味づけられているかによる。つまり、読書を、議論をすべし、ということになる。見聞を広げ、知識を増やすべし。外界からの刺激が概念化され意味を持ち始め、考察が始まる。 |
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