コラム:週刊モンモントーク
[11] 「異文化体験」をあらためて考える
1.「文化」って何?、と改めて考える
「やっぱり文化の違いだね」「それは価値観の相違だ」とは便利なフレーズ。なんかわかったような気にさせる。妙に納得して、じゃ、しょうがないね、とか。物事を言葉によって概念化するってそういうこと、わかるってそういうこと。でも、そこで止まるのはもったいない、というか、それを思考停止という。
思考停止は、時によって、まったく考えない状態より始末が悪い。すべてわかったと思い込み、それ以上考えないのだから。「私ほど、日米の文化の違いを実感を伴って理解している人はいない、と錯覚してしまう。」とは、ある生徒の弁、「錯覚してしまう」と、自らを戒めている。そう、その到達点からさらに上を目指すんだ。考えるってそういうこと。
文化が価値観の違いだとすれば、それはもう、人が二人いれば文化が違うことになる、価値観のまったく同じ人はいないのだから。でもそれを普通は、「文化の違い」って言わない。ではどこから、そう呼んでるんだ?。
2.「異文化」って何?、と改めて考える
「なんか違う」「へーっ、そうするんだ」と、その考え方やリアクションの違いに戸惑う、そして驚く。そこから、「それ変」「それやだ」という嫌悪感まで案外早い。だから人は、「価値観の尊重」「異文化理解」「共生」という概念を生み出した。感情的になるなと、理屈は理性が後から付ける、争いを避けるために。人は歴史に学んではいるようだ。
が、それらの理想的概念が、自分たちの生存の基盤(これが文化)を侵し始める時、人は寛大ではいられなくなる。寛大とは、強者の弱者に対する態度なのだから。私が間違っているのか、相手が間違っているのか、に解答はない。それぞれが文化を背負っているのだから。「普遍的価値観」はないのだから、努力し目指すものに変わったのだから。
結局、「異文化」は「異国の文化」である限り「異文化」で、「異文化の尊重」は、あの「博愛」と同じ運命を辿るのか。「価値観の違い」は妥協点を探ることができるが、「文化の違い」は埋められない?。
3.「アメリカ文化」って何?、と改めて考える
かつて、公民権運動の頃、理想を込めて「人種のるつぼ(melting pot)」と呼ばれた社会は、「人種のサラダボール」となった。それは、異なる文化背景を持つ集団が、それぞれの利益を追求する社会。利害調整のため、弁護士の比率が最大の人工国家、訴訟の国アメリカ、文化とは軋轢を避けるもの、アメリカに文化はあるの?。
アメリカンドリームの正体は、文化が希薄なことによる、むき出しの人間性のぶつかり合い?。ジーンズ、ジャズ、ロックンロール、ハリウッド、コーラ、ハンバーガー、インターネット、SNS、次々と新しいものを生み、若さに価値を置く。文化とは元来、古さに価値を置き、抑制と圧迫を強いるもの。全体を統べる文化がない、それが、アメリカの「文化」?。
「自由と平等」を金科玉条に、リベラル(革新?)と保守が鎬を削る。新たな価値観の下、新しい文化を追求する自由と、温故知新、少なくとも自分たちの文化は守ろうとする自由。やっぱり、自由の国アメリカ、惹きつける魅力。
4.「異文化体験」って何?、と改めて考える
てことは、アメリカでの「異文化体験」は、他の伝統ある国でのそれとはちょっと違う。ひとつの「異」文化の中へ入っていくのではなく、様々な文化が渦巻く中へ入って行くってこと。アメリカは1776年に作られた人工国家、建国の理念は近代思想。近代的価値観を追求する運命にある、「明白なる運命(Manifest Destiny)2.0」?。
だから本当は、「日本文化とアメリカ文化」と並べることは、誤解の元かも知れない。優劣ではない、次元が違う。グローバル化はアメリカ化だと揶揄される。が、それは当然だ、近代的理性が生み出した人工国家の壮大な実験が続いている。前世紀の、極端な理性主義の実験国家、ソ連が崩壊した今、やや穏健な?方法で。
理性は感情をコントロールできるのか。グローバル化は最後のユートピアなのか。アメリカでの「異文化体験」の持つ意味は、「自由主義」と「個人主義」の可能性と限界を、理性を駆使して探るところにある。
5.エピローグとしてのモノローグ
人類全体が、ひとつの文化で統べられる日は来るのだろうか。その「普遍的文化」はどのようなものになるのだろうか。生物が適者生存の方向に進化するのなら、その時人類はまだ、人でいられるのだろうか。
作文・小論文教室詳細
このページのTOPへ 作文・小論文教室TOPへ HOMEへ