コラム:週刊モンモントーク
[21] 「切なさ」と「やるせなさ」を批判的に考察する
1.「切なさ」「遣る瀬なさ」を感じる刹那
この「切なさ」の、この「遣る瀬なさ」の正体は何?、この「辛く切ない」気持ちは、どこからやって来る?。悲しみなのか、苦しみなのか、分かってもらえないもどかしさなのか、はたまた、恋しさなのか、虚しさなのか。この胸を締め付けるような、透き通った感情が空間の歪みに抗うような、この「切なさ」の、この「遣る瀬なさ」の正体は何?。
それは、人だけが感じる感情か。たとえば、喜怒哀楽−喜び、怒り、悲しみ、楽しさは、コロ(マルチーズ)やリュウノスケ(ミケ)も感じていた、恐れ、もそうだろう。が、「切なさ」はどうか、それが、彼らにあったとは思えない。いや、その前に、人の子供達はどうだ?、自分が子供だった頃、「切なさ」を、「遣る瀬なさ」を感じていたか?。
「切なさ」を、「遣る瀬なさ」を、最初に感じたのはいつ?、その感情を初めて感じた時の出来事は何?。そう、「切なさ」「遣る瀬なさ」は、思春期以降の人のみが持つ感情、いや逆、だから、その時期を思春期と名付けた。
2.「哀しさ」、「苦しさ」じゃない、ただただ「切なさ」
喜怒哀楽に代表される感情は、外部刺激に対する本能的反応、行動を駆り立てる、あるいは、思いとどまらせる根源的反応。生をできる限り全うするため、内面から湧き起こる内部刺激、それが、感情。それを概念化できるのは人だけ、だが、少なくとも哺乳類なら、生き抜くためのセンサーとして搭載してるソフトウエア、それが、感情。
では、人の大人だけが持つ「切なさ」と「遣る瀬なさ」の役割は何?、その感情によって、何が守られ、どんな行動に結びつく?、そして、なによりも、なぜ大人だけ?。その感情は沸きい出る、生きることが可能性の追求であると、意識的に無意識的に、気づき、その可能性が無限でないと、悟り、そして、究極の不可能性を実感した時、それは、やって来る。
未来を概念化できる人間だけが、生の不可逆性と有限性を意識する。そして、生きることそのものへのアンビバレントな想いが、ある瞬間すべての感情を包有して、現れる、その複雑な感情を「切なさ」「遣る瀬なさ」として知覚する。
3.
あの人が好きだ、という感情にも、「切なさ」は伴う、それは、その人と永遠に一緒にいたいという願望、その可能性を巡る想い、片思いならば当然、相思相愛ならなおさら、一瞬足りとも離れたくない、いつまでも。そして、それは不可能なのだと、知っている。わかっているのに、心は納得しない、というか、それが感情、だから、「切ない」。
9歳の少年が、「あの、お空の雲から、ずっとここまで続いてる滑り台、あったらいいな」と言って、はにかんだように目をそらす。彼は知っている、そんなものはないと、でも、言わずにはいられない、可能性を口に出さずにはいられない。彼はその時、「切なさ」を感じていたのか。それとも、概念になる前の、その心のうずきをそっと大切に仕舞ったのか。
「切ない」と「遣る瀬ない」はどう違う?、遣る瀬ない想いは、辛く切ない想いか。諦めきれない想いの、遣りどころはどこ?、それがないから、遣る瀬ない、BadEndの予感、それでもその可能性に賭けてみるのか。
4.「切なさ」「遣る瀬なさ」に感じる普遍
その日暮しの中でも、災害の只中でも、戦火に追われ、非日常が日常の、疎外された絶望の中でも、それでも人は、「切なく」なれるの?。それでも人は、わずかな希望さえあれば、「遣る瀬なく」、夜空を、星空を見上げられるの?。そう、「切なさ」「遣る瀬なさ」は、人が人である証、少なくとも、人らしい生き方をしている証拠、それは、自由の代償?。
「切なさ」「遣る瀬なさ」に結晶する複雑な感情が、「喜び」や「楽しみ」という直接的で単純な感情に、人の価値において優るなら、「切なさ」「遣る瀬なさ」が価値観の核となり、思考や判断や行動に影響する普遍性を持つなら、人の世はもっと生きやすいものになる?、それは人だけが持つ、人を人として特徴づける感情なのだから。
自由とは可能性の追求、が、その可能性は必ず阻まれる、それはあまりにも孤独な営み。すべての人が持つ「切なさ」「遣る瀬なさ」を共有し、それが普遍的文化の中核になるなら、孤独は、疎外感のない平穏で優しいものに、なる。
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