コラム:週刊モンモントーク
[12] 「弁証法」を弁証法的に解説!?
1.「弁証法」ってなんだⅠー古代哲学:問答法ー
モンモン: せんせーぇ!、弁証法って、結局、何?。テーゼとか、アンチテーゼとか言ってるけど、テーゼは英語のthesis、アンチテーゼはantithesisだから、何かの主張に反論するってこと?。ジンテーゼってのも、それってsynthesis だから、統合とか合成ってことだよね。弁証法って、話し合ってよい結論を出しましょうってこと?。
先生: う〜ん、英語というか、近代学問を成り立たせている元の言語、西洋語に精通するって強いなあ。まさに、いかなる考察も概念が可能にし、その概念は言葉が形作る。まさしく、「始めに言葉ありき」だ。
モンモン: せんせー、何言ってんの。だから、話し合いで決めましょう、ってのを何で、弁証法、なんて難しく言うの?。
先生: では、当の弁証法は、英語で何と言うのかな?。
モンモン: え〜と、dia...dialecticかな。
先生: 意味は?
モンモン: 弁証法...でしょ。
先生: それ、答えになってないなあ、日本語の訳を言っただけだ。
モンモン: えっ!?
先生: たしかに、考えや概念は、言葉にして初めて他人に伝わるのだけれど、その言葉を覚えるだけでは、考えや概念がわかったことにはならないな。では、dialecticに似てる言葉は何だ?。
モンモン: dia...dialogue?、えっ!?、対話とか話し合いじゃない、結局!。
先生: そうだ、dialecticは、対話や議論が上手で説得力があるというギリシャ語から来ているんだ。でも、ただの話し合いではないんだ。ものごとを多面的に見ることで、本当に、本質に、真理に到達しようとするんだ。
モンモン: ギリシャ...?、あっ!、ソクラテスの「無知の知」?、あれ、やだよね、会話をいつも否定から入る人みたいで、なんか他人を小馬鹿にしてる、君は何も知らないんだ、って。
先生: そうかな、ソクラテス自身も、無知を知ることで、真理は求め目指すことはできるが、到達は出来ないと考えていたのかも知れないな。自戒の念を込めていたんだ。
モンモン: そう言えば、「悪法も法なり」って言って、毒をあおったんだよね。結局、無知を悟った不完全な自分の中に、少しでも完全な何かを求めたってこと...かな。なんか、悲しいね。
「問答法」とは、対話や問答によって「真理」に到達しようとする。古代哲学者のソクラテスはその代表者。弟子にプラトン、その弟子にアリストテレス、と続く。素朴な?弁証法。「素朴さ」が、常に劣っているとは限らないが...。 |
2.「弁証法」ってなんだⅡー近代哲学:弁証論ー
モンモン: でも結局、「本当」がわかんないなら、何だって言えるよね。議論の意味がないんじゃない?、結局は。
先生: そう、それが「懐疑論」だ、ああ言えばこう言うって。それに異議を唱えたのがデカルトだ、「我思う、ゆえに、我あり」と。存在の疑えない「自我」から、共通の「本当」を、「普遍的真理」を究めようとする端緒を開いたんだ。
モンモン: 近代哲学の誕生だね。運命の17世紀、近代の幕開け、何度も聞きましたあ。でも、疑えないことをベースにって、どゆこと?。疑えないものって、やっぱり科学かな、「客観的事実」とか言うよね。
先生: そう、そこが問題なんだ。人が最も疑えないのは、自分の経験だ、そして、信頼できる人から聞いた出来事だ。科学技術は、その信頼できる他人の経験の代表だ。では、経験できないことは?、世界や宇宙への根本的な問いは?。それは分からない、と言ったのがカントで、むしろ、そのような問いを発する「理性」を批判的に考察したんだ。
モンモン: もしかしてあの「純粋理性批判」っての?、純粋に理性的に何かを批判したのかって思ってた。でも、その頃の科学技術の発展が大きいんじゃないの、結局は。「普遍的真理」につながる「客観的事実」が、どんどん発見されてるんだから。今のところ経験の裏づけのないことは、後でってことで。
先生: ただ、カントは「物自体」は認識できない、というか、ものの認識は、「主観」が事物や世界のあり方を概念化することで成り立つ、と言ってるからそう単純じゃないんだ。認識の「コペルニクス的転回」って自分で言ってるがね。
モンモン: 何、それ!?、「主観」によって何だって言えちゃうって、もとの「懐疑論」に戻っちゃう。まさか、「普遍的」な「主観」があるので大丈夫、とか言わないよね。主観は、客観的じゃないから主観的なのに。
先生: ま、似たようなもんだ、「主観」には、ある認識の形式が、人である限り、「先天的」に備わっていると言うんだ。そして、その共通の土台を「理性」としたんだ。そして、それを批判的に考察せよと。
モンモン: 頭のいい人は考えることが違うね。人はそんなふうに出来てる、って?、まあ、そうなんだろね、結局は!。
「弁証論」とは、近代哲学者カントの用語、抽象的な観念は議論しても無駄、そんな議論が生まれる理由とその限界を探れと。「物自体」の認識は不可能という消極的な?弁証法。「消極性」が、常に劣っているとは限らないが...。 |
3.「弁証法」ってなんだⅢー近代哲学:弁証法ー
モンモン: でも、「物自体」は認識できない、あきらめろ!、なんて言うより、人類の発展とともに、進歩と調和、繁栄の果てに、いつか、すべてが、真理が明らかになる日が来る、あきらめるな!、のほうが、何か、魅力あるよね。
先生: そうなんだ、「理性」とは、どうしてもそういうふうに考えを進めるんだ。カントは、それは無駄だ、どうせ分からないのだから、と言ったんだ。が、いや、理性が求めるのなら究めよう、正(テーゼ)−反(アンチテーゼ)−合(ジンテーゼ)を繰り返す精神の運動の果てに「真理」「絶対知」がある、とするのがヘーゲルだ。
モンモン: ここで出てくるの、それ。でもそれって、一般論に疑問を投げかけて、批判的に考察して、ひとつの意見を主張するってことと同じじゃないの、結局。
先生: 一般論はいわゆる「一般的な」論ではないから、ひとつの「命題」と言い換えたほうがいいかな。しかし、論理的に考えを進めるって、そいうことだ。ただ、ヘーゲルの場合、究極の真理とは、哲学的な「絶対知」、最高の知性のような精神的で観念的なものなんだ。キリスト教的世界観から抜け出てはいないんだ。
モンモン: どういうこと?、それ。
先生: 神の御心を知る、とでも言えばいいのかな。
モンモン: えっ?
先生: 自然科学だって、ニュートン力学だって、神の意図というか、神が作り上げたこの世界の仕組みが知りたい、という欲求がその動機なんだ、「理性」のどうしようもない欲求がね。人文科学にそれがあったとしてもおかしくないな。
モンモン: 結局、何なの?、わけがわかんない。もっと現実的に、神とか関係なくできないの。
先生:宗教が現実性を持っている人は今でもたくさんいるし、その頃は十分、現実的で切実な問題だったんだ。しかし、そのような観念論は駄目だと考える人もいた、マルクスだ。
モンモン: えーっ、ここでマルクス登場?、共産主義とどう関係するの?、ああーっ、共産主義が最高の政治体制って「真理」に到達したって考えたんだ、理性が!。現実世界そのものを見てみろ、世界はやがてこうなるぞ!って。
先生: そう、その理性の導き出す結論の完璧さに、多くの知識人が感情的に熱狂したんだ。
モンモン:それ、何か、おかしくない?、理性的なのに感情的って。
先生: しかし、20世紀の歴史が証明した。弁証法によって生み出した真理、共産主義は、最悪の政治形態だとね。
モンモン: てことは、弁証法って破綻してるんじゃないの、というか、それを生み出した「理性」が破綻してる?。
先生: しかし、理性的な議論、という前提を取り外すわけにはいかないんだ。他に変わるものがないからな。
モンモン: う〜ん、「理性」は完璧じゃないってこと、欠陥があるってこと、でも、それも人が人である証なんだ、きっと、人はそんなふうに出来てるんだ、結局は!。
「弁証法」と言えば、ヘーゲル、マルクスを指すことが多い。違いは、観念論か唯物論か。考えろ、判断しろ、行動しろ、いつかは「真理」に到達できるぞ、という積極的な?弁証法。「積極性」が、常に優れているとは限らないが...。 |
4.結局、「話し合う」って何だ
「話し合う」って何なのだろう、ただ「仲良くしよう」ってだけじゃない何かがある。「話しあえばいい」とよく聞くけど、話し合いはそんなに簡単なの?。「話せばわかる」って本当?、そもそも、「話し合う必要がある」ってどんな状況?、全員が納得する結論ってあるの?。
理性的に話し合った結果、理性的に納得できる結論、それって、論理的に反論できないってこと?。だとすると、議論に長けている人、説得力のある人の意見が優勢になるから、みんな、議論に勝つ練習を始めるよ、弁論術だ。あれっ?、真理を求めるはずが、術、技術の話になっちゃった。
平和と繁栄のために、人は、話し合うことしかできない、というか、平和と繁栄のために、話し合うことができるのは人だけ。徹底的に話し合い、議論が、論理が破綻した後の、論理的でない
モンモン: せんせーっ、結局、弁証法的議論ってどういう風にするの。
先生: 今してきたようにだ、 普通みんな、弁証法的に議論し考えているんだ。しかし、何事も意識的に行うのと、なんとなく無意識的に流されて、周りに合わせて行うのとでは、雲泥の差があるからな。
モンモン: えーっ、弁証法的議論って、ただの議論なの!?、結局は!、もーヤ・ダ...。
(番外). 結局、独創的な「作文・小論文」とは(その4)→(その3)
小論文である限り、論理的な組み立ては必要、「理性」が説得されるってそういうことだから。地道に議論を積み上げ、その延長線上に、緻密に、根拠のある主張を展開する。それはもちろん、正攻法だ。しかし、直線的に同次元の高みへ向かうのではなく、他の次元へワープする「精神の運動」もおもしろいかも、危険だが。
「知」のブルーオーシャンに乗り出せ、新しい概念の創出。批判的思考を刺激する、想像、空想、妄想の、どの段階までぎりぎり現実的でいられるか。現実的とは何、と問いかけ、そして、現実的の意味を広げ変えていくんだ。
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