コラム:週刊モンモントーク
[28] 「異文化論」−テーマ型小論文三題
1.一題、「クールジャパンの正体」―小論文―
(1) まずは:ブレスト
「一般論」: グローバル化→ハイコンテクスト社会、日本文化、特殊、ダメ
「主張」: クールジャパン←日本文化の普遍性
「経験・見聞」: アメリカで見た「日本庭園」
「知識」: 侘び寂び、無常観の美
「想定反論」: そのような感覚、外国人にわかるか
「切り返し」: 精神性は伝わる
「決めフレ」: 「えも言われぬ」、言葉にできない真実
「結論」: 日本文化の精神は普遍的
(2) そして:小論文
クールジャパンの正体
グローバル化が進む今日、コミュニケーションの面からみると、ハイコンテクスト社会の典型である日本文化はその短所が批判の的になることが多い。しかし、クールジャパンと言われるように、日本文化そのものは外国人をも引きつけている。その魅力とは何だろうか。特殊であるとされてきた日本文化に普遍性はあるのだろうか。
アメリカで見た「日本庭園」が、私に日本文化とは何かを考えるきっかけを与えてくれた。アメリカに作られた「日本庭園」は日本で見るそれとはどこか違うのだ。日本の握りずしとカリフォルニアロールほどの大きな差とは言わないが、微妙に違った。何かが欠けていた。それが「侘び寂び」に通じる美だと直感し、「ああ、私は日本人なんだ」と思った。文化とは意識しなくとも身に染み込んでゆくものだ。
「侘しい」「寂しい」という言葉からも分かるように、「侘び寂び」は本来、美しさとは無縁だった。しかし日本人は、その「ものごと」が消えていく儚さに魅力を見出し、独特の美意識を生み出した。無常観を美に昇華させたのである。咲き誇る桜よりも散りゆく桜を、シンメトリーで華やかな庭園よりも自然で苔むした庭を美しいと感じる文化を生み出した。滅びゆくもの、古びたものに、えもいわれぬ感慨を感じる心、それが、日本文化の魅力を生み出している。
もちろん、日本文化の根底に流れている、その「侘び・寂び」の感覚が、そのまま外国人に伝わるとは思わない。しかし、その無常観につながる精神性は、目まぐるしく変化する現代社会において、ある種の心の平安をもたらすのではないか。
「えもいわれぬ」とは言葉で言いようがないという意味である。グローバル化の進む現代、言葉を駆使してコミュニケーションを図り生き抜くしかない。しかし、その忙しさにふと疲れを感じた時、言葉にできない真実があるという日本文化の精神は普遍性をもって、外国人をも引きつけ始めているのかもしれない。 (797字)
2.二題、「アメリカで考えた『自由』」―小論文―
(1) まずは:ブレスト
「一般論」: アメリカは自由の国、アメリカンドリーム
「主張」: 自由には恐怖が伴う
「経験」: プレゼンテーション←自由、責任、恐怖
「経験」: 校則←アメリカない、自己責任と無責任、怠惰
「想定反論」: 自由、素晴らしい、快感
「切り返し」: 自己責任の重大さ、恐れ
「決めフレ」: 自由とは自己責任のもと可能性を追求すること
「結論」: 自由の持つ恐怖←責任
(2) そして:小論文
アメリカで考えた「自由」
アメリカは自由の国だ。自由の女神がそれを象徴している。建国以来、経済的、思想的、そして、宗教的自由を求めて世界中から人々が集まり、今もアメリカンドリームを叶えようと多くの人がやってくる。しかし、自由が持つ本来の姿、自由が伴う恐怖をどれだけの人が理解しているのだろうか。
アメリカの学校ではよく、宿題でプレゼンテーションをする。集団ではなく個人で行うことが多いので、好きなことを自由にできるのだが、成功しても失敗しても、その全責任はすべて自分自身に覆い被さってくる。私も、非常に緊張し、準備したことの半分も発表できなかったことがあり、とても悔しい思いをした。自由が伴う責任と、その恐ろしさを実感した。
また、アメリカの学校には、日本のような制服や規則はない。ピアス、髪染め、ネックレス、ジーンズ、ほぼ何でもありだ。生徒は自由で、そのようなことで縛られることがない。しかし、私の友人がある時、露出度の高い服を来てきた時は違った。見た人は皆一様に驚き、結局、先生に呼ばれ体操服に着替えさせられた。自己責任の限度を超えたのだ。無責任な自由はただのわがままであり、怠惰だ。
もちろん、自由は素晴らしい。誰にも支配されず、何にも縛られず、好きなことを好きなようにチャレンジする。それは人類が勝ち取った権利であり、そこにはある種の快感がある。しかし、その快感には常に自己責任がついてまわる。だから、人は時に自由を恐れ、未来に開かれた大きな可能性の前で、その責任の途方もない重大さを考え立ちすくむ。
アメリカ人は、世界一自由な国の世界一自由な人々だ。アメリカは、自分の行動に責任を負う人々の国だ。自由とは、束縛から解放されることだけを意味しない。それは、自己責任のもと、自分の可能性を追求することだ。その前で、人々は時に不安を覚え、恐怖する。だから私達は、真の自由を求め、勇気を持って責任という暗闇に立ち向かっていかねばならない。 (803字)
3.三題、「日米文化論‐私の経験から」―小論文―
(1) まずは:ブレスト
「一般論」: 文化=古典、芸能、教養
「主張」: 文化=価値観
「経験・見聞」: アメリカ社会←個人主義、個性尊重、自由、自己中?
「経験」: アメリカ的思いやり→集団意識←個性尊重
「想定反論」: 日本←察しの文化、ハイコンテクスト社会、ダメ?
「切り返し」: 文化とは価値観→異文化、誤解や争い→言語、積極的なコニュニケーション
「決めフレ」: 文化とは人類の知恵、優劣はない
「結論」: アメリカ→集団を大切にする個人主義、日本→個人を大切にする集団主義
(2) そして:小論文
日米文化論‐私の経験から
「文化」と言われるとまず何を思い浮かべるだろうか。ほぼ単一民族の国で、均一の文化の中に生きている日本人にとって、それは、伝統芸能や伝統工芸であったり、古典に代表される書物や古今の音楽などの教養であるかも知れない。しかし、文化とは、言葉や習慣などに顕著に現れ、人々の感じ方やものの見方を左右するものであり、人生観や倫理観を含む価値観そのもののことである。
私がアメリカで生活を始めてまず気がついたことは、自分を中心として世界を見る個人主義的な生き方と、そういう生き方をお互いに認め合い個性を尊重する社会の在り方である。とにかく「自由」なのだ。服装や授業中のお菓子のことだけではない。学習に関しても、そんなことまでと思うことでもどんどん発言する。小学生のころは、皆が自己中心的で自分勝手に見えて嫌なこともあった。
しかし、高校生の今、彼らも周りの人のことを考えて行動していることに気づいた。「アメリカ的思いやり」ともいうべきものが、もちろんあるのだ。また、私の所属するコーラス部の女子は目立ちたがり屋で、いわば「ドラマクイーン」的な人達だが、合唱時の一体感は特別なものだ。そこには確かに集団意識がある。しかも、一人一人の個性を尊重した上でのものだ。
私は、集団主義的な日本社会の「察し」の文化を否定しない。むしろ、素晴らしいと思う。ハイコンテクスト社会の凛として澄んだ雰囲気は、とにかく言わなければ伝わらない雑然としたローコンテクスト社会にはない長所だ。しかし、文化とは人々の価値観そのものであり、文化の違いが誤解や争いのもとになることは容易に想像できる。異文化がぶつかるステージでは、言語による積極的なコミュニケーションが求められる。
異文化に身を置いて初めて自国の文化の長所短所が見えてきた。文化とはその社会を円滑に回すための人類の知恵であり、本来、優劣はない。だから、アメリカが社会をも含めた集団を大切にする個人主義の国ならば、日本は、日本文化の奥ゆかしさを保ちながらも、言うべきことはきちんと言えるという個人を大切にする集団主義の国を目指すべきだ。 (872字)
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