作文・小論文−入学・編入試験対策、さらに超えてその先へ

コラム:週刊モンモントーク

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[60] Essayとエッセイ(随筆)と小論文と...

1.「Essay」と「エッセイ」
アメリカ人の言うEssayと日本人の言うエッセイは、似て非なるもので全然違うんだよって、Essayは小論文で、エッセイは随筆だよって、ドヤ顔でノタマウもんだから、「アメリカには随筆ってジャンルはないんですかァ?」ってボヤ顔でボソッと言ったら、聞こえなかった(わけないんだけど)のかスルーされ、質問自体がなかったことにされた。

アメリカ人の言うEssayは普通、"Persuasive Essay"や"Argumentative Essay"と呼ばれるもので、アカデミックな場で意見を戦わせるための土台となる型、最小の雛形がFive Paragraph Essay、ドライで感情の入る余地はなく、エビデンスだけがものを言う、あくまでもプラグマチックな世界。

ただ、機能性のみを追求したシステムに、「ロマンチックでプラグマチック」な感情を抱く場合もあるから人は面白い、何にでも意味を見出し感じ入る。そして、そんな個人の想いをサラッとよしなに書くのが、エッセイ。

2.「Essay」と「小論文」
で、Essayには"Narrative Essay"と呼ばれるものがあり、唯一、個人的な物語を物語れる型。そう普通、個人的な経験は客観的なエビデンスにはならない、そう普通、「私」の経験が事実を証明していると言っても受け入れられない、客観的な証拠を出せと...。えっ...!?、小論文の主張の根拠として、経験を入れろって言ってたじゃない...か?。

うん、日本で「小論文」ってタームが使われる文脈は、試験(入試や入社)に課される場面、そこでは、文章力や構成力とともに、人となりも評価される、だから、出来るならすかさず自己アピールせよ... だ。小論文が時として、課題によっては、随筆に近くなる瞬間、抽象的な課題ほど自分に引きつけて盛り上げ、感動させ、決めフレで締める。

自己の経験が自己の世界観の中で意味づけられ普遍性を彷彿とさせる時、主観的であるはずの経験が、なるほどと、客観性を帯びて迫る、それが、小論文の小論文たる所以、一服の清涼剤ともなり、キラリと光る。

3.「Essay」と「随筆」
でもね、元々、エッセイはEssayで、EssayはEssais(エセー:仏語)で、「Les Essais(随想録)」で、essai は「試み」や「試し」って意味で、うん!?、そう、「つれづれなるままに」試しに書いてみましたってね、モンテーニュさんが、16世紀だよ、それが"Essay"の始まり!。ってことは、Essayって随筆?、その「徒然草」は、14世紀、200年以上古い...。

アメリカだとやっぱり、独立後間もない18世紀初頭のワシントン・アーヴィング、「スリーピー・ホローの伝説」が有名で、米文学の特徴、短編小説の創始者とも言われるけど、essayist としても知られ、過去を慈しむロマン派。まあ、ロマンチストだから随筆、書くのかな?。でも、あのタレガはアーヴィングの「アルハンブラ物語」、読んだのかな?。

おっと、日本の三大随筆のあと二つ、「方丈記」は13世紀、「枕草子」が11世紀は千年前の女流エッセイスト、清少納言氏、クール・ジャパン、ここにも。つまり、エッセイ(随筆)がEssayなんじゃない、元々、Essayが随筆なんだ。

4.「小論文」と「論文」
例えば、ワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造に関する有名な論文は1ページと5行ほど、でもそれを、小論文とは言わない、立派なと言うか、それこそ完璧な論文。客観的に合理的に科学的に創造的な考察を形にすると、普通はどうしても必然的に長くなる、でも、短くて済むならそれも一人前の論文。

小論文は論文の雛形、考察の訓練。論文では、一般論は現状分析(過去の議論のまとめ)に、主張を支える根拠とした自己の経験は、普遍的な"経験"(実験、観察、調査、統計、引用)に、譲歩はそのまま、反論への反論、結論には本来、決めフレなんか要らない、というか、入れちゃダメ、淡々と冷静に事実と判断したことだけを書く。

でも、個人的経験が最も駄目な根拠なら、経験って何?、経験の裏づけのない客観的事実って、人の成り立ちからしてあり得ないハズ、経験を体系づけることで人は現実感を得、"普遍的"な世界観を確立していくハズ。

5.「小論文」と「読感文
だから結局、小論文は随筆に限りなく近くなる、小論文の形を装った随筆、自分語り、大学の志望理由書や会社のカバーレターと同様、自己アピール型になる。たとえ課題文型小論文であっても、その課題文を共通の了解事項(一般論)として、自己の視点から問題点を切り取り自己の発想力でその問題を斬るのは同じ。

だから、読書感想文も自分語りに持ち込めってのが、分かってる先生の指導、読書をひとつの経験と考えれば、その経験に意味づけをし、自分の世界観で価値観で批判的に考察し、小論文の形式で主張を感想を論ずる。で、極端なのが、全部読まなくても書けるって指導?、そりゃそうなんだけど、"先生"としては乱暴かな?。

でも、信頼関係のある指導者としてはOK?、だって一冊の本を読むって、ただカバーツーカバーで読めばそれでいいってもんじゃない...、まあ、一流の指導者はそもそも読書感想文を書けなんて言わないんだけどね。

6.エピローグとしてのサイテーション
小林秀雄は言う、「定石というものは(中略)、実際には勝負の不正確さ曖昧さを、いよいよ鋭い魅力あるものにするだけだ。人間は厳正な知力を傾けて、曖昧さのうちに遊ぶようにできている。」と、そうであるなら、そして、伝えたい何かが沸々と湧きいでるなら、「厳正な知力を傾けて、曖昧さのうちに遊」んでみたい。

-♪タ〜ンタ、タ〜タ、タラ〜、タータータ、タン〜 -





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