コラム:週刊モンモントーク
[15] 「問題」は問題とされた時初めて「問題」となる
1.「問題(レベルⅠ)」の発生
「現代社会は問題で満ちている、現代社会の諸問題」、と言った時の、「問題」って何?。「これは問題だ」「それって問題なの」「重大問題だ」「問題が発生した」「問題にするぞ」、えっ!?、問題に「できる」の?。そう、問題は発生する、作り出される、(そして、隠される)。では、その問題はなぜ「問題」なの?。
それは人が、「考える」社会的動物だから。考える葦として、群れを作り、群れをまとめて、生き抜かねばならないから。生存の基盤、集団の調和を乱すもの、それがまずは、「問題」と意識される。鳴り響く警告音、ビーッ!。考え方、価値観を覆そうとするもの、問題の原因は徹底的に追求され、問題人物は排除され、「社会的」に追放される。
自然界にはゴミはなく、環境問題はない。自然は自然として完璧に自己完結していて、だから「自然」というのだが、何の問題も発生しない、ただ、あるがまま、なすがまま。ゴミは人だけが出し、あらゆる問題は人だけが作り出す。
2.「問題意識」の発生と共有
かつて、「問題意識」を持つ必要はなかった、というか、批判的にものごとを考察することは、危険なことだった。それは、群れの、村の、コミュニティーの掟に、価値観に、文化に挑戦することにもなるから。人々は、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において」、完璧に区別され差別されていたから。
そして、運命の17世紀、後に♪チャチャチャンチャラチャ-ン〜ヴィヴァルディの「四季」に体現される啓示が訪れる。もう「自由」にしてもいいんだよ。えっ!?、いいの?。ああ、いいのさ。「自由と平等」と言った時の、念仏?にも似た魂の浄化の感覚、この心地よさ。「基本的人権」は、すべての人、社会への福音!?。「自我」≒「問題意識」の発生と共有。
人は、「火」を手にしてその歩みを始め、「言葉」を手にして概念を伝え未来を想い、「農耕」を手にして都市を作り神を崇め、「問題意識」を手にして近代的自我を解き放ち、全知全能の神に近づく。次に手にする神器は何?。
3.「問題(レベルⅡ)」の共有
問題意識を持ち、批判的に思考し、問題は「問題」とされ、共通の価値観を持つ人々の間に共有される。より良い社会のために、より良い自分自身の生のために、そして、知恵を集めて解決法を、理性が探る。価値観が同じなら、正義の御旗の下、公平で偏りのない、誰もが納得する解決方法が得られる、ハズ...。
しかし、価値観がまったく同一であることはあり得ない。いわんや、文化が違えばまったく違う。異文化衝突の種は尽きず、問題は次から次へと湧き上がり、解決されず、積み上がる、と言う前に、問題を共有すること自体が難しい。時に問題は問題とされず、問題にならない。時には、わざと気づかぬ振りをする、価値観の相違をその盾に。
最悪、問題が作り出され共有される、ある人を、ある集団を排除するために。真逆、問題を問題として共有させない勢力が跋扈する、自分たちの既得権を守るために。
4.勇気を出してよかった!?
人が人である限り、「問題」はなくならず、人はそんなふうに出来ている。ポイントは問題設定、それは本当に「問題」か、解決を探るに値するか、見極める目。「おやっ!?」と感じたその感覚、芽生える問題意識、さあ、どうする?。論ずるのか、取り組むのか?。「問題(レベルⅡ)」は問題とされた時初めて「問題」となる!。
現実の集団−グループ・クラス・学校・地域・会社・社会・国家−に対して、問題提起を実際にするのは、関わりが大きければ大きいほど至難の業。だってそれは、その盤石な価値観・文化に疑問を投げかけることだから、「それ、変だよ」と一石を投じることだから、集団の調和を乱す−問題(レベルⅠ)発生−者として、非難、排除されるリスクがあるから。
関わりがなければ、無責任な評論家で済む、が...。人は本能的に知っている、集団からの離脱の危険性を、それが、どれほど恐ろしいかを。真の勇気が試される瞬間、考えろ!、進むのか、退くのか、退くことも勇気...。
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