コラム:週刊モンモントーク
[46] 「人は人である限り同じ」の意味−たとえば「アメリカで学んだこと」
1.「話せば分かる」?
人と人は分かり合えるの?、これは永遠の課題、文化の違いとか言う以前の、個人と個人の問題から始まる。人はそれぞれの物語の中で生きてる。分かり合うとはその物語がピッタリ合うことなら、それはあり得ない。想像力が豊かなら、お互いの世界を思い描く努力は出来、共生を図ることも出来る、が、想像力が貧困なら、万事休す、サヨナラ。
価値観の違いは必ずある、文化が違えば尚更。妥協点を見出そうとお互いが努力するなら、話し合うことで分かり合おうとすることは出来る、そして、分かったという瞬間が来ることもある、が、それは錯覚。人は人である限り皆同じ、たった一人で自分だけの物語の中を生きる。皆、そうしてる、そうするしかない、それだけは、皆同じ。
いちいち話さなくとも分かるように文化を作った、いや、結果出来たのが文化や習慣や価値観。ハイコンテクスト社会になるほど「普通こうするよね」が行き渡り社会が安定する、はず?。人類の知恵、それが今、問われてる。
2.「問答無用」?
でも、端っから妥協するつもりがないなら、ケンカ腰なら、相互理解はおろか接点さえあり得ない。「あなたの言うことにも一理ある」なんて言おうものなら、相手は嵩にかかって攻めて来る、謝ったら負けの世界。生き馬の目を抜くとはまさにこのこと、油断も隙もありゃしない。善意につけ込んで出し抜き、自分だけの利益を追求するヤツ。
問答は議論は言い争いはあってもいい、けど、相手に寄り添おうとしないなら、それは無駄、無用。物理空間を共有してるだけのお互いがバーチャルリアリティ、共通の世界を見ようともしない、物理的に邪魔なだけ厄介。精神的にはパラレルワールドで次元が違う、物理的世界を共有してるだけに始末が悪い。それぞれの思惑だけが交差する。
観念論は半分当たってる、各自が各自の世界観を持つ、が、唯物論も半分当たってる、すべての世界観の実現はムリ、勝者と敗者?、
3.「アメリカで学んだこと」―小論文―
(1) まずは:ブレスト
「一般論」: 文化の違いは価値観の違い→誤解や争い
「主張」: 人である限り同じ
「経験」: アメリカ→個人主義→but集団も
「経験」: 日本→集団主義→but個性も
「想定反論」: 文化の違いはある
「切り返し」: 人が社会を作るのは同じ
「決めフレ」: 文化は人類の知恵
「結論」:生きる意味を探る←同じ
(2) そして:小論文
アメリカで学んだこと
文化の違いは価値観の違いであり、価値観とは人々の考え方や行動のもとになるものである。だから、文化や価値観の違いは、時として誤解や争いを生み出すといわれる。しかし、私にとってのアメリカ生活は、人は人である限り、どのような文化背景を持っていても、人として変わらないことを実感させるものだった。
アメリカは個人主義の国であると言われ、自己主張の仕方や、誤りを最後まで認めようとしない姿勢は見習うべきところもあるが、集団としての力を発揮しなければならないところでのまとまりも素晴らしい。私は合唱団に所属しているが、普段はやや利己的にさえ見える人達が、目標が定まればひとつにまとまった見事な合唱を見せる。
反対に、日本は集団主義の国であると言われ、自己主張の仕方が下手であるが、もちろん、個性がないはずはない。お互いの個性をお互いに分かり合っているという、無言の相互理解、察しの文化がある。日本の学校での、体育祭や文化祭でのクラス単位でのまとまりは、決して個性を殺したものではない。
たしかに、文化の違いにより、個人や集団のどちらにいつ力を入れるかの度合いは違ってくる。個人の面が強く出るのか、集団の面が強く出るのかだ。しかし、人は、社会という集団を作らなければ生きていけないことも確かだ。人は人である限り自我があり個性を持っているが、安定した社会があってこその個人だ。
文化や価値観は社会を安定させようとする人類の知恵だ。人々は、自己をも含めた集団を豊かにし発展させるために社会を作った。個性と個性がぶつかり、時には傷つき、お互いを癒し、妥協しながら前に進んできた。文化の違いはあっても、人としての生きる意味を追求し続けるという目標は、人である限り変わらないのだ。 (723字)
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