コラム:週刊モンモントーク
[56] 「考える教育」の危険性
1.
「詰め込み教育」から「ゆとり教育」へ、そして、「アクティブ・ラーニング」へ、2020教育改革が具現化する。「ゆとり」の時みたく何か素敵な教育が始まる、気がする、今回は"抜本的な"大学入試改革を伴い本気度☆5つ、期待が膨らむ。それは近代を駆け抜けた人類が到達した一里塚、すべての人が人として人のために生きるための人の教育。
それはまさしく21世紀を生き抜くための「考える教育」、批判的思考の先の創造。でもその確かな実践は、教える側の、大人の事情の、社会や文化の、様々な矛盾をも暴き出す。「それオカシイよ」との反発、「考える教育」は諸刃の剣、批判が社会や教育者自身に向かった途端、破綻する。えっ?、そんなことさせないって?、だよねー。
2.
「詰め込み教育」華やかなりし頃、校内暴力が吹き荒れ、「オレ達はクサったミカンじゃない」との反発は、"考えさせない"教育の感情的条件反射、 それを徹底的な管理教育(一層"考えさせない"教育?)でねじ伏せた。でも同時期アメリカは、個性を伸ばす「自由な教育」で失敗し、ゼロ・トレランス(不寛容)方式を取り入れた。
なんだ?、どっちに転んでもダメなのか。結局、"30歳以上を信じるな"ってね、というか、「考える教育」なんかしなくても、必ず人は考え始める、それが人だから。ってことは、「考える教育」って上から目線の傲慢なお節介?、まあ、教えられる方にとっても"考えない"「詰め込み教育」の方が案外、楽かな、放っておいて、勝手にしてねって。
そして皆、自分探しの旅に出る、何かを求めて旅に出る、実際の旅には出なくとも必ず、
3.
信頼できる(と少なくとも感じる)人が、旅の道案内をしてくれるなら、愛情を感じ、共感を得て、勇気を持って、安心して前へ進める、一歩踏み出すその意味が見えてくる、それは、心の旅も同じ、いや、心の旅だからこそそうありたい。そして、先人の知恵をたっぷりと学び吸収したとき人は、ものを考え始める、これが本当の教育。
考える土台は自己の文化、寄って立つ文化、文化の多様性を学び価値観の多様性に目を見張ったとき初めて、自文化の全容が立ち現れる、自身、逃れられない因果に気づく。結局、社会や文化に縛られて生きるしかないなら、なんとなく流されるのではなく考えに考え、その是非を問いたい、でも、要は内面の問題、ほら、自己の経験の概念化。
40億年前に始まったリレーのバトンを次のランナーに手渡せるのなら少しは、意味があるのかなって、それでも、考えない方が、批判的思考なんかない方が楽なのかなって"考える"、小川沿いの散歩、ラテ・アートのある喫茶店。
4.
「自由と平等でしょ!、分かりきっているのになぜ出来ないの!?」ってある人が憤ってた、正義感一杯に今にも憤死するかのように憤慨してた、あんなの許せないって、何で分かんないのって、反対するなんてオカシイよって口をパクパクさせながら、冷静に理性的に考えてみてよって、熱烈に感情的にまくし立ててた。
人類の知恵である、社会を維持するための制度や文化は、抑圧的な装置として新参者(若者)にのしかかる、もっと素敵な社会があるはずと。が、考えに考えて作り上げた社会が完璧なはずの社会が、実践してみるとここまでダメなのかと唖然とさせる、机上の空論。理性的な議論って本当はキケン?、でも、感情的な議論は議論じゃない。
考えに考えて作り上げた社会なのになぜ、そのことについて考えちゃダメってなっちゃうの?。でももっと恐ろしいのは考えてるつもりなのに、あるコードに従ってるだけで実は、何も考えてないってオチ、アナタデス。
5.
結局、何のための教育?、幸せってなんだ?っていう究極の基本的疑問に戻ってく。問題意識を持つことは本当に、幸福に充実に繋がるのかって話、いやたぶん話は逆、問題意識を持つことが幸福や充実に繋がる社会を作っていくってこと、だって、思考し創造し実践するってことが、人が人である証なのだから。
だから、完璧な社会が、目指すことしか出来ない夢のユートピアなら、議論での揚げ足取りは止めよう、完璧な社会を、人は創造できないのなら、対立は、思いやりと寄り添いで緩和しよう、誠実さと謙虚さで問題を扱おう、少なくとも、相手の想いを忖度しよう。そして、人としての最大の罪は、そこにつけ込み覇道に走ることだと知ろう。
昨日と同じ今日で、平凡な日々の中で、過去は記憶の彼方に消え失せ、未来はいつまでも水平線の向こうで、今だけが世界のすべてで、考え患うこともなく、咲いてる花に飛んでる鳥に喜びを感じるなら、それがホントの...。
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