コラム:週刊モンモントーク
[26] ステレオタイプの危険性と有用性
1.エスニック・ジョーク
「沈没船ジョーク」と呼ばれる有名なエスニック・ジョーク。様々なバージョンがあり、登場する民族にもバリエーションがあり、新しく付け加わったりしているが、元々はこんな感じだったようだーー
豪華客船の難破、沈没が不可避、救命ボートが足りず、体力のある男性は、海に飛び込み救助を待つしかない。 が、さすがに躊躇する男達、そこで、何とか飛び込ませようと、船長が呼びかける、
イギリス人には:「こういう時こそ、紳士としての行動を!」
アメリカ人には:「英雄は率先して飛び込みますよ!」
イタリア人には:「飛び込めば女性に持てますよ!」
フランス人には:「いいですか、決して飛び込まないでください!」
ドイツ人には:「飛び込むのが規則となってます!」
日本人には:「他の人は、皆様そうしてますよ!」、と。
2.ステレオタイプ
これ、言い得て妙?、それぞれの文化のエッセンスを端的に表現してる?、クスッとくる?、でも、ステレオタイプの典型例。 うん、もちろん、民族・国民全員がそんなわけない、どこの国でも人それぞれとも言える。 それを15字前後でまとめるなんて、完璧なステレオタイプだ、色眼鏡で見るともいう。一歩間違えれば危険、だけど、なぜか滑稽。
これ、個人でも同じ。 あの人ってあんな人だよ、アイツらしいよって。 性格や個性ってそういうこと。 本当は違うかも、あるいは、そこでは見せてない表情、他の面があるかも知れないのに。 そして、家族、グループ、地域社会、職場、会社、と集団になっても同じ。 決めつけちゃいけないのはわかってる、だけど、なぜか醸しだされるある種の雰囲気。
これが、価値観の、文化の形成。 個性的な個人が集まって集団を作っているはず、なのに、やっぱり、それぞれの段階で、なぜか浮かび上がるある種の共通点。 そのエッセンスがジョークにもなる、そのズレが、なんか滑稽。
3.帰納法と演繹法
それって一種の一般化、個々を観察することで、全体を貫く何かを概念化する、これが、帰納法。 そして、一旦、一般化されると、その視点から個々を見る、本当は全く当てはまらないかも知れないのに、これが、演繹法。 便利といえば便利、というか、人が、外界を意識の中に秩序づけ、考察するにはそうするしかない、 単純で簡単なことでも。
そう、一般化を経ないで何かを議論できるかといえば、それは、ムリ。 概念化するってそゆこと。 議論どころか、思考することさえ、概念化なしでは、ムリ、というか、思考することそのものが、概念化の過程。 そうやって人は、周りの混沌とした世界を秩序づけ、意味づける、それが、価値観の形成、そして、文化の形成。
そう、概念化とは、一種の物語を紡ぐこと、「真理」とは自分にとっての矛盾のない物語、普遍的な「普遍」は、ナイ。 「脱真実」という、二重の意味での概念化。 そして人は、自分の物語を失った時、自分の人生の意味を、ウシナウ。
4.議論のぶち壊し方(相手の怒らせ方)
議論って、そんな物語のぶつかり合い、どちらがより多くの人の共感を得られ、より「普遍性」を持つか。 議論の構成は小論文と同じ、というか、架空の相手と議論をするのが小論文。 まずは、論の前提、たたき台となる一般論が必要、そこから弁証法により議論が発展する。 価値観が、文化が一様であれば、暗黙の了解、前提、ルールが利くが...。
でも...、「おっしゃってること、意味不明です」「質問の意味がわかりません」「それがオジサン思考」「今時の若者は何を考えてるんだ」等、議論の前提を壊しにかかる言説、あげくの果てには「何だ、その口のきき方は!」って、それこそ意味不明。 あれ、わざと論点をずらして、相手を怒らせて、有耶無耶にしようとしてるの?。
議論とは創造、共通の一般的概念の上に、異なる概念をぶつけ合い、新しい概念を創造しようというもの、繊細な想像力が不可欠。 なのに、「価値観の違いだね」「文化が違うから」という究極の、議論破壊兵器の炸裂...。
5.ジョークの構造(相手の笑わせ方)
繊細な想像力の上に普遍性を求め、新しい概念を慎重に創造するのが議論の本来の姿、対して、ステレオタイプとは超単純な概念化、考えが浅い、だから危険、TPO(時、場所、機会)を選ぶ。 発言が記録され、TPOから切り離された時、全く違う意味が付与され得る、単純で浅いから、「そんなつもりで言ったんじゃない」と言っても、もう遅い。
しかしだからこそ、ステレオタイプは滑稽さを喚起する、単純で浅いから、真面目な深い議論ではないという前提(一般論!)で、クスッとする。 真面目な議論の難しさを知っているからこそ、そこにチラッと光る一種の「真理」にニヤッとする。 人は、真の「真理」の前では笑わない、現実から微妙にズレた時、滑稽の妙が顔を出す。
TPOを丸ごと引きずり、TPOをいつでも作り上げられる個性の強い人、そんな人が存在すれば、いつでもジョークを連発できる、場の雰囲気を自ら作り出し、文句をつけたって、つけるほうが無粋だから...これが究極のコミュ力...!!??。
6.価値観の差と文化の差−再び三度
価値観の違い、文化の違いって、本当、捉えがたい、捉えたと思った端から逃げていく。 繊細に慎重に考察したか、ステレオタイプになっていないか。 その、「何か違う」って感覚をどこまで概念化できた?、不十分でOK、ギリギリまで考えたという自覚と、今の自分の限界を意識してればいいよ。
「それってステレオタイプじゃない?」との批判に、「そうかも知れない、でもね...、」と精一杯の反論ができればOK、だって、違和感を感じたことは事実だろ?、価値観の違い、文化の違いを感じたことを、なかったことには出来ない...でしょ?。 それは、その正体を考えに考え概念化した、現時点での、自分の「真実」なんだ。
価値観の違い文化の違いは、確かに存在する、これに反対する人はいない。 そして、単純すぎるステレオタイプは、真剣な考察において考えを曇らせる、これに異議を唱える人もいない。 さあ、それから、どうする...。
7.エピローグとしてのモノローグ
しかし、考えに考え、問題を確信し概念化し、口に出した時、「意味、わかんない」とか「バカなの」と返された時の、すがすがしいとも言える一種の快感は何?、悩みも吹っ飛ぶ晴れやかさは何?、それこそ「わけがわからないよ」...。
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