コラム:週刊モンモントーク
[34]「人間は自由の刑に処せられている」
1.「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
「我思う、されど我なし」というパロディ?がある―真面目な哲学原理としてる人もいる?―が、何か安心する。「ゆえに我あり」と来るより、なくてもいいんだよみたいな、精神だけで実態がないみたいな、心が軽くなる感覚が一瞬する。実際、「我思う」と「我あり」が、論理的につながる必然性はないという議論は、何度も提出されてる。
それでも、「我思う」の「思う」をないことには出来ない、「それは錯覚だ」と言われても困る、「えっ!?、錯覚なの?」って「思う」。認識するってそういうこと、認識できることが、「ある」と感じること、「存在」の確信は認識からやって来る、これが認識の構造。では、「ない」は「ある」ことが出来る?、「ない」それ自体は認識可能?、たぶん、不可能...。
遠い昔、ビッグバンのその瞬間、無(偽の真空)のゆらぎから、物質と反物質が共に生まれ、すぐに、ほぼ全ては対消滅したという。が、その都度、わずかな物質が消滅を免れ、「ある」の長い歴史を刻み始めたという。
2.
そこに赤いリンゴがあれば、人なら皆が「赤いリンゴがある」という認識を持つ、その中身は個人によって微妙に異なるはずではあるが。五感の刺激が脳に伝わり、脳はその存在を確信する。そして、人だけが複雑に概念化する、と、脳内ネットワークの刺激だけでも、ある確信が発生する、「正義」や「愛」が、存在するはずだという消せない想いが。
そう、想像・空想・妄想する脳の出現で、「自由」という概念も生まれる、未来を概念化できる、「自由意志」の登場。未来志向という人だけがなせる業、現実認識と脳内妄想のギャップ、埋められれば、埋められるか、埋めたい、でもダメ、という葛藤。それが「実存(現実存在)」、あるべき本質は何も決められていない、自ら求めよ、自由に、それが、人。
その「自由」に喜びを感じるか、恐怖を感じるか、これも認識の問題。だから、自由意志なんてないっって、自由に意見を言い放ってみても、この現実の中で、世界の中で、自由な選択をして生き抜かねばならない現実は変わらない。
3.
遠い昔のその昔、宇宙誕生からプランク時間が過ぎた時、眩いばかりの光からの物質の誕生、そして 反物質の揺らめき揺らぎ、光への回帰。残された僅かな物質は、自分が光であったことを忘れ、光から生まれたことを忘れ、光に還ることを忘れ、138億年が過ぎた。現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)は、137億9980万年目に登場。
概念化が出来る脳(理性の誕生!)は「真善美」=「完璧なるもの」を求め始める、あるはず、と「心」(心の誕生!)が叫び、遂に「完全なる存在者」の声を聞く、ウソではない、が、妄想、人の脳の性、それが人間性。が、やがて、完全であるはずの「神」は色あせ、完璧と思われた近代的「理性」も...今は...、そして、すべてが消え去った後に残るものは...?。
先の大戦を振り返り、「日本人は12歳の少年のようだ」とマッカーサーは言ったが、12歳の少年だったのは、日本人だけではないでしょ、あんなにお互いがムキになったのだから。そして今、人類はその少年期をもいよいよ終える!?。
4.「悲しみよこんにちは」
世界はいつも美しい訳じゃない、正義がいつも勝つわけじゃない。美を真理を求め祈りを捧げた日々、厳格に敬虔に祈れば祈るほど苦悩が増す矛盾、悲しみの正体それは、現実と理想とのズレ、理想とは脳内の拡張現実、仮想現実そして、遂に人の脳は「脱真実(post-truth)」という、二重の意味での概念化を達成する...悲しき「真実」の創造。
それを、嘘だ、妄想だ、と言って非難しても始まらない、あの「神」だって元祖「脱真実」じゃないか。そもそも、「妄想」はなぜ非難の言葉なんだ?、人の脳の「考える」って能力の中で最高位のものじゃないか、「神は妄想である」って最大級の賛辞じゃないか、そこから、創造がイノベーションが生まれるのだから...ちょっと悲しく切ない妄想。
「神」を崇拝し「真善美」の中に生きようとした人々が排他的になり大きな罪を犯し、「理性」に価値を置き「人間性」の疎外からの解放を実現しようとする人々が寛容性を失い感情的になる、なんという逆説...悲しき「自由」の真実。
5.エピローグとしての短い詩と歌
存在することの哀しみを そっと問いかけた
誰もが自分を例外だと思っている不思議
存在自体が悪だと 知ったときの哀しみ...
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