コラム:週刊モンモントーク
[81]「作文」は何を目指して書けばよいのか
1.「ひとつの話題」で作文をひとつ書き上げることーそのためには「経験の概念化」が必要ー
『朝、目が覚め窓の外を見た。船が動いていない。最初は寝ぼけていて何が起きているかわからなかった。コンタクトをとってやっと気づいた。「〇〇〇〇に着いた」と自分に言い聞かせる。』
ある6年生の「夏休みの作文」の冒頭で、〇〇〇〇は旅行先の地名です。グイグイと引き込まれる書き出しです。読んでいる方も「何が起きているかわから」ず、私は一瞬、港の見えるホテルかどこかの窓から、寝起きの海を見ているのかと思いました。しかし実際に船に乗っていたのは自分、そのことをあえて描写せずに読み手にハッと気づかせる。うまいですね。この冒頭の一段落で読み手も一緒に旅行をしているような錯覚を起こさせる見事な導入部です。
私は、ああ、やはり子供達は成長している、と今さらながら感動しました。毎週の漢字テストでの100点の連発は困難でも、授業中の私の発問に頓珍漢な受け答えで笑いを誘っても、肉体がバキバキと音を立て成長しているように、当然ながら精神も日々、成長し続けているのだと今さらながら実感しました。そして精神的成長とは、「経験の概念化」の過程なのだと改めて意を強くしました。
実際、この生徒はこの導入部の後、たったひとつの話題、「サーモン釣り」だけで作文を書き切っています。この「ひとつの話題」で回せる力こそ、作文力の第一歩です。旅行に行って(次から次へと話題を変えて)すごいと思った、とても楽しかった、また行きたい、という何の世界観も感じさせない作文から、「ひとつの経験」に対して「感じたこと・考えたこと」を書く作文へいつ、何年生で、何歳の何をきっかけに、移行できるかです。潜在的に培われてきたハズの力をどう顕在化させるのかです。
「経験の概念化」は、無意識的にも意識的にも「感じること→考えること」を通して起こります。その何かオヤっと感じたことにこだわり、その気づきは何なのかを考える過程です。そして考えた結果を自らの想いとして概念化するのは、やはり「言葉の力」です。と言いますか、それが言語の起源そのものでしょう。人である限り、そのモヤっと感じた何かを言葉にして≒概念化して誰かに伝えずにはいられない、人ってそのように出来ているのだと思います。
『その四匹のサーモンは家の冷凍庫に入っている。』
とこの作文は結ばれていました。この終わり方も上手ですね。様々なことを読み手に想像させます。何度も冷凍庫の扉を開けて見ている様子とか、その後の食卓とか。私はベタに、冷凍庫の中で口を半開きにして凍った4本のサーモンのトロンとした複数の目を思い浮かべ、「ホラーだね」と思わず失礼なことを言ってしまったのですが...。
2.「経験の概念化」とはオヤっと感じたことにこだわることーそれが「考えること」の始まりー
『少し湿った空気、カリフょルニアより少々やさしい日差し、目の前には四階建ての白い校舎、私は懐かしの小学校の前に立ち尽くしている。東京の空気を吸いながら、私は思った、「いよいよ日本での生活だ。」』
別のある6年生の「夏休みの作文」の冒頭です。詩的に始まるこの作文も、「ん?、何?」と読者を引き込んで行きます。わざわざ「私はこの夏、カリフォルニアから日本の小学校へ体験入学しました」なんて言われなくとも状況はすぐにわかり、それ以上に、五感で感じ取ったその瞬間の緊張と決意と何とも言えない何かが一気に伝わってきます。
そして、この作文の最終段落は―
『実感のなさで、ただぼーっとしていた。遠くに見える友達、何だかさびしい風、今日、私はアメリカに帰る。やり残したことはない。目の前には白い校舎、私はささやいた。「また、来年」』
と、第1段落同様、詩的に終わるのですが、ここで使われている「-だ。-である」調はその第1段落とこの最終段落だけで、その間のいわゆる本論、日本の小学校での体験の記述は「-です。-ます」調のきちんとした散文で書かれています。
私は、その最終段落の余韻を残した終わり方(も素晴らしいのですが)以上に、意図したこの文体の転換の方に「スゴい」と感じました。そこには、日常と非日常の逆転と言いますか、現実と非現実の交錯といえば言い過ぎか、あるいは、異質な世界、異世界への転生経験? の記憶とも言える気分を感じました。
大林宣彦監督の映画「転校生」の冒頭の踏切の場面、モノクロからカラーへ変化する演出がふと記憶のそこからウン十年ぶりに湧き上がり、同様な色彩変化を想像しました。あるいは、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」冒頭の、千尋達が八百万の神々がいる街へ迷い込むきっかけとなる森のトンネルを抜けるような感覚かも知れません。
本人はそこまで概念化できていないのかも知れません。が、何かモヤっとしたものを感じたからこそ、意識的に表現方法を変えたのでしょう。作文指導ではどちらかの文体に統一させるのが基本ですが、教えられたことを受け入れさらに発展させるとはこのようなことを言うのでしょう。
そしてその「モヤっとしたこの感覚は何?」と考え続けることが批判的思考につながります。そしてそこに、その底流に流れるものを「価値観の違い」≒「文化の違い」として概念化できた時、想像から創造へと思考は飛躍的に広がります。
その時のために子供達は日々、語彙力を鍛え読書を行っていると言っても過言ではありません。現実をすくい上げる言葉の網の目の細かさ、つまり、豊かな言語力がそれを準備するのですから...。
3.「考える」とは想像し創造することーそのための「世界観」の確立ー
『「あまりかわらないかなあ」これがぼくの第一印象だった。同じ友達、同じような教室だった。そして友達と話に夢中になり周囲がよけい気にならなくなって緊張感をまるで感じなくなった。』
6年生の3作品目の冒頭です。会話や心のつぶやきで作文を始めるのは、やはり読み手を惹きつける定石ですね。この作文はさらに、何が起こっているのかわからないミステリー感が見事です。「変わらないって?、いつもの日常?、緊張感って何?」という疑問です。しかしこの後すぐに『ところが、...』と切り返し、ミドルスクールへ進学したことに起因する変化が綴られます。
アメリカでのエレメンタリーからミドルへの進学、場所こそ変わるが知った顔も多い。それでも、いや、それだからこそ子供達は変化に身構え緊張感を持って臨むのでしょう。「同じかな?」って感じたのも束の間、環境や状況の変化に戸惑い、自身を適応させようと意識的無意識的に葛藤し始めます。世界観がさらに広がる瞬間、それを作文にしています。
「驚き」や「気づき」には比べるものがあります。自分のそれまでの常識≒価値観とのズレを感じたとき、「驚き」や「気づき」がやってきます。そしてその時、その「オヤっと感じたこと」や「何かモヤっとしたもの」を、意識的に考察し言語化できるかどうかです。さらにその時、その自分の「価値観」が、自分の属する「文化」に多大な影響を受けていることに気づいていると考察がさらに深まります。
前の作文が、アメリカから日本へという地理的に離れた空間軸での体験から、自分や社会への考察を目指すものなら、この作文は、ミドルへの進学という時間軸でのその考察につながるものです。あと少しの知識と考えの深まりで、前者は、日本とアメリカという二つの文化の違いを感じているからこその日米文化論となり、後者は、その二つの文化の違いから見たアメリカ社会論になります。
中高の帰国生入試の作文や面接で求められているのがそれです。帰国生定番と呼ばれてる「自己アピール型」はまさに、ここアメリカでの体験から何を考え何を得たのかを、文化や価値観の違いを背景に述べるものです。大学の入試小論文は、さらに社会的な問題について体験や見聞から論を進め意見を述べますが、構造は同じです。
そして、その経験の部分が実験やリサーチになれば、研究論文やプレゼンテーションになります。構造が同じなのは偶然ではありません。人が自分の、その広い意味での経験を概念化していくとはそういうことです。人は、人の脳は、何か新しい経験を刺激として受け取ると、因果関係を探り一つひとつの出来事をつなぎ、一つの「物語」を作るようにできています。それが創造です。
『中学校に入ってからの変化や忙しさは、今となってはとても充実した生活となっている。』
と終わるこの作文の結びは、変化をくぐり抜け適応を果たし世界の見方が新しくなったことを暗示しています。「世界観」の刷新、一種の新世界の創造です、ってやや大袈裟かな...。
4.「読書感想文」という「作文」ーやはりこれも「経験の概念化」ー
さて、読書感想文も作文です。「感想文」とは、「驚き」や「気づき」を言葉にしていくことです。旅行や行事などの出来事について書く“普通の”作文も、言われてみれば「感想」を書いています。
ですから、読書感想文もひとつの話題でひとつの作文を書き切るべきです。そして、読書感想文のひとつの話題とは、その本の「主題」です。作者がその本を書くことによって浮かび上がらせたかったものは何かです。それは、作者が持っていた「何かモヤっとしたもの」を概念化した、その作者の「世界観」から提出されたものです。
友情や成長、絆といった身近でわかりやすい? ものから、自由と平等、さらには、正義や愛という永遠のテーマ、そして、不条理や死、人の生きる苦悩を扱い存在そのものの意味を問うものまで様々です。
それを読み取る(=自分なりに概念化する)だけでなく、それに自分の「世界観」をぶつけ、新しい何かを創造するという、概念の概念化が幾重にも重なる恐ろしく高度な知的作業が、読書感想文です。だから、読書感想文を(特に高学年に)安易に書かせるのは酷です。慎重にタイミングを計るか、どうしても書きたい何かが湧き上がるのを待つべきです。
「読んで感想を書いてみなさい、何でもいいから」って、「感じたことや面白かったところをそのまま書けばいいんだよ」って言われて、『主人公が〜するところがハラハラドキドキしました。僕もいつか○○のように〜をしてみたいです』と書いてみて、案外、書いた本人もこんなのでいい(低学年はこういうのもいいですね)のかなって思っていたりします。
目の前の現実に「楽しい」とか「スゴい」とか反射的に反応するだけの作文のように、読んでいる本のあらすじに脈絡も意味もなく反応するだけの感想文、何の世界観もない感想文の出来上がりです。自分の生(なま)の経験に意味づけできないのに、他人が魂を懸けて? 概念化し作品としたものを読み、何か意味のあることを語ることができるでしょうか。小学生の読書は文字通り読書、とにかく「書を読む」でよいと思います。それも貴重な体験です。
現実世界での生の体験と本の世界での擬似体験の相互作用が、考えることを促し現実を作り上げていきます。現実はそこにあるものではなく各人が概念化を通して創造するものです。そのとき現実世界が「意味」を持って立ち上がってきます。それが「世界観」です。そしてそれが創造の仕組みです。
私は生徒にどう接するか迷ったとき、「自在な思考」を意識的に思い浮かべます。そのために今、何をどうすればよいのかと。もちろん、塾である限り、短期的なさしあたっての目標は目の前の入試突破であり編入試験合格です。しかし、その先を見据えた、その延長線上に「自在な思考」があるような何かを提示できないかと考えます、他ならぬ私自身の意味のために...。
5.個人の「世界観」と属する集団の「文化」ーそれぞれが「経験の概念化」ー
小6生徒の作文のさわりを三つ紹介し、読書感想文についても考えを述べてきました。1.で、『精神的成長とは「経験の概念化」の過程なのだ』と記しました。そうやって人は「世界観」を獲得していくのですが、それは結局、「文化」を身につけ、そして、それを乗り越える力とその可能性を手に入れる過程とも言えます。
文化も概念化の集合的塊である以上、創造されたひとつの「物語」にすぎません。しかしそれは、人が生きていく上で必要な壮大なフィクションです。各自の世界観は属するその文化から多大な影響を受けています。人が社会的動物でありコミュニティーを離れて生きていけない以上、当然です。
そして、その各自の価値観が相互に影響しながら、全体の文化が微妙にゆっくりと変容していきます。文化が後天的に学ばれる(学ぶしかない)以上、当然です。ほとんどの人はそのことに気づかず、また、気づく必要もなく「常識」として受け入れ、時には反発しつつ結局は、長いものに巻かれる?常識的な「大人」になっていきました。
しかし、近代が終わろうとしている今、時代の変化の速度が上がり、その「常識」が常識でなくなり、何が何だかわからなくなり、ともすれば「意味」を見失いがちです。「これに何の意味があるの?」と...。しかし、意味を見失ったのではなく、意味は各自が創造するものになったのです。意味がないと嘆くのではなく、意味を創造できないことを嘆くべきです。
創造力を育む「自在な思考」が求められる所以です。人が生(なま)の経験を概念化する過程に「想像→空想→妄想」の3つの段階があると思います。創造は、現実に根ざした想像力から、想像力に裏づけられた空想力から、空想力に支えられた妄想力から、一種の閃きによって生まれるのでしょう。そして、その閃きを吟味するのが理性的な常識です。
常識とは文化です。確固とした文化的背景があってこそ人は、無意識的にそれを乗り越え新たな創造を生み出してきました。それを意識的にしなければならないのが現代です。それに気づかせてやるのは私達大人の役割であり、そしてそこから、私達を乗り越え自分達の世界を切り開いていく力とその可能性を模索するのは子供達の役割です。
6.意味への問いとは自由への問いーそのためには「経験の概念化」が必要ー
成長とは文化を身につけ乗り越えていくことだとすれば、中途半端な乗り越え方をさせないために、私達大人は、乗り越えられる側は、しっかりと大きく立ちはだかり私達の「文化」を押しつけていくべきだと思っています。
私の体感では70人に1人、「なぜこんなこと(勉強)をするのか」と授業中にいきなり聞いてくる生徒がいます。「意味」への問いです。かつてはもっともらしいことを述べたこともあったのですが、最近はもっぱらこう答えます、「そんな○○な質問をいきなりしないようにだ」と...。
それでも突っかかってくる(そういう時の彼らはこの表現がピッタリですね)ならさらに、そんな重要な問題に短い時間で簡単には答えられない。本当になぜか知りたいならまずお家の人と話し合いなさい。それでもまだ聞きたいなら1時間くらい時間をとるから来なさいと続けます。
しかしそれは、現代社会が必然的に伴っているある種の絶望感を微妙に感じ取っているからこその「意味」への問いなのでしょう。その何かモヤっと来たものをうまく概念化できず表現できず、目の前にいる大人(乗り越えるべき文化の体現者)に本能的に稚拙にぶつけてしまうのでしょう。自ら考えることができないのです。
自由とは何かと問われれば、「可能性があること」と答えます。自由とは希望であり、希望とは可能性です。可能性がなくなったとき人は、意味がないと嘆き絶望します。しかし、かつてとは違い、基本的人権が保障されている先進国では、それは順序が逆です、そこでは「意味」そのものが創造なのですから。つまり、意味への問いとは自由への問いなのです。
作文を書くとは新たな「意味」を創造することであり、「経験の概念化」を通して、人の能力をその可能性をフル活動させることです。『「作文」は何を目指して書けばよいのか』という題でしたが、何かを目指して作文の練習をするのは本末転倒ということです。作文は何かを目指す起因ではなく、その結果なのです。
結局は日々、漢字練習をして語彙力を鍛え、読書をし対話をして考え悩み...という基本を大切にする中で、豊かな想像力(←素晴らしい!)を育み、豊かな空想力(←いいね!)を養い、豊かな妄想力(←ん?、ええっ!?)を馴致(かな?)し、精神的成長を促し、自己の経験を属する文化や己の世界観に照らし見つめ概念化し、そして、...なのです。
私達が彼らに与えられるのは、豊かな言葉の網の目とそこから生まれる感受性を育むきっかけだけで、それをどう活かすか、そしてどう生きるのかは彼ら自身が考え模索するしかないのでしょう。思えば私達大人も、これまでもそうであったようにこれからも、それぞれの物語を紡ぎ続けてゆくのでしょう、それぞれの意味とそれぞれの自由を求めて...。
人ってそのように出来ているのです。だから最後に、結局やっぱり...!!!?
ー『漢字・音読・読書は毎日!、決まった時間に自ら進んで元気よく!...対話もね...!?』ー (完)
7.エピローグとしての引用など
『軽やかなピアノの音、多彩なドラムのビート、地味だけれど欠かせないベースの低音、待ちに待った時が始まった。1年前ぼくがテナーサックスを始めたきっかけは、ジャズを演奏するためだった。』で始まり...
6年生4作品目冒頭、「待ちに待った」瞬間の描写後すぐ、1年前の回想に入り、そして、ひとしきりの回想を終え―
『観客は静かになり、視線がぼく達七人に集まる。練習は十分やった。一番心配だったソロのパートのアドリブにも自信がついた。ぼくは深呼吸をして、ぼうしをかぶり直した。何だかわくわくしてきた。さあショーの始まりだ。』で終わる...
その瞬間の心地よさ、その至高体験の瞬間だけを切り取る。演奏の出来も結末も述べない。そんなことは超越したその一瞬一瞬の、生を実感させる何か。今を生きているという心の叫び...その瞬間の...
-♪トゥタ・タタン・トゥ・ラ、トゥタ・タタン・トゥ・ラ、トゥタ・タタン・トゥ・ラ-
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